松江城 その1

旅行3日目の午後は、出雲からJRの特急で30分移動して、松江城とその周辺の見学です。

松江城について

歴史

関ケ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏ほりお ただうじが初代松江藩主となり月山富田城に入城しますが、月山富田城は中世山城で近世の藩の中心としては不適当な点もあったため、慶長12年(1607年)に交通の便の良い亀田山に松江城の築城を開始、慶長16年(1611年)に完成しました。

寛永10年(1633年)に2代藩主・堀尾忠晴ほりお ただはるが跡継ぎを定めないまま死去、松江藩主としての堀尾氏は途絶えてしまいます。寛永11年(1634年)、京極忠高きょうごく ただたかが若鎖国小浜藩より入封。この時代に三の丸が造営されます。

寛永14年(1637年)に忠高が跡継ぎを定めないまま死去。寛永15年(1638年)に松平直政まつだいら なおまさが信濃国松本藩より入封、それ以降は明治維新まで松平家が松江藩の藩主を務めました。

明治時代、廃城令によって城内の建築物は払い下げとなりますが、天守だけは元藩士らによって買い戻されて保存されました。

構造

宍戸湖畔にある標高28mの亀田山山頂に本丸を築き、その南に二の丸上の段、東に二の丸下の段、北に北の丸、西に後曲輪が配置され、二の丸上の段のさらに南には三の丸が置かれました。輪郭連郭複合式と呼ばれる形式の平山城です。

現状

天守は山陰地方唯一の現存で、国宝にも指定されています。本丸の一の門と南多門、二の丸上の段の南櫓・中櫓・太鼓櫓、二の丸下の段の北総門橋、二の丸と三の丸を結ぶ廊下橋が復元されています。

いざ登城

松江城はJR松江駅から直線距離で1.5km・道程では2km以上あるのでバスを利用しました。最寄りバス停は県庁前なので複数の路線が経由し、本数も多いので便利です。なお、県庁が建っているのは三の丸跡です。

県庁前バス停から歩いてすぐ、内堀に到達。内堀の向こうには、城址公園の南端、二ノ丸の3つの櫓が見えています。ここから左手に行くと南口門、右手に行くと大手門です。

大手門

ここは大手門枡形の外側、大手柵門跡です。

松江城の大手門枡形は異様に大きく、1辺46mの大きな正方形の領域になっており、馬溜うまだまりと呼ばれています。この写真の右手フレーム外がいま入ってきた大手柵門、奥右寄りの石垣の切れ目には櫓門がありました。

馬溜にある井戸と水路です。本物の遺構を埋め戻した上でレプリカを作ったのかな。

二の丸下の段

大手門を入ると二ノ丸下ノ段です。東西100m×南北210mの広大な空間です。現在、建物はありませんが、江戸時代には米蔵が並んでいました。手前にある石積みも米蔵の跡です。

ここから二の丸上段へ登れます。石垣の上に見える建物は太鼓櫓です。

二の丸上の段(東)

階段を上ると二の丸上の段です。主要部分は本丸南側ですが、本丸東側にも細長く続いています。それとも、三ノ門の外だから二の丸とは別の帯曲輪と思った方がいいのかな?

二の丸上の段は、さらに東西に別れており、西側半分の方が1.5mほど高くなっています。まず二の丸上の段の東半分にある櫓を時計回りに見て行きます。

三ノ門

三ノ門跡。案内板が立っているだけで門そのものは残っていません。

太鼓櫓

太鼓櫓は、二の丸の北東隅に建てられた平屋の櫓です。名前の通り、時刻を知らせるなどのための太鼓が置かれた櫓が置かれていたと考えられています。平成13年(2001年)に復元されました。

太鼓櫓の中は一続きの広い空間で、隅に太鼓が置かれていました。

中櫓

中櫓は、二の丸の東側に建てられた平屋の櫓です。『御具足蔵おんぐそくぐら』とも呼ばれていました。名前からして武具を保管していたと考えられます。平成13年(2001年)に復元されました。

南櫓

南櫓は、二の丸の南東隅に建てられた二重櫓です。『南ノ弐重屋くら』『御召蔵』とも呼ばれていました。用途については判っていません。平成12年(2000年)に復元されました。

番所跡

写真の建物は復元というわけではなくただのトイレです。が、かつてこのあたりには二の丸御殿の入口を守る板書がありました。東西22m×南北6mということなので、このトイレより一回り大きいのではないかと思います。

二の丸上の段(西)

二の門

二の丸上の段の東半分と西半分の間には部分的に高さ1~2m程度の段差があります。二の門は二の丸上の段北部、番所跡と松江神社の間の段差の部分にあります。

松江神社

二の丸北西部には松江神社があります。松江神社には、松江城を築城した堀尾忠氏ほりお ただうじの父・堀尾吉晴ほりお よしはる、越前松平家で最初の松江藩藩主・松平直政まつだいら なおまさ、茶人としても知られる越前松平家7代藩主・松平治郷まつだいら はるさと、そして東照宮を合祀したことで徳川家康が祀られています。

意外に境内が小さく、上の写真に写っている範囲でほぼ全部です。

興雲閣

二の丸上の段の西南部には、現在興雲閣が建っています。木造2階建て、入母屋瓦屋根の擬洋風建築です。観て判るとおり江戸時代のものではなく、明治36年(1903年)に明治天皇行幸時の御宿所として建築されました。日露戦争のため行幸は中止されたのですが、4年後の明治40年(1907年)に皇太子(後の大正天皇)の宿泊に使われました。県指定文化財になっています。

一般公開は2階部分なので、赤絨毯の階段を上って2階へ。

2階の大部分はひとつづきのホールになっています。

2階の一部は貴顕質として、皇太子(後の大正天皇)の行啓の際、御座所・御寝所として使われた部屋です。貴顕質は見学者は立ち入れず、扉から中を覗く形での見学です。
シャンデリア本体は当時のものが現存しています。照明のランプシェード、カーテン、絨毯、机、椅子などは当時の写真からの復元です。3つの部屋に別れていて、左から御座所、拝謁の間、右の畳敷きの部屋が御寝所です。

本丸

一の門、南多門

松江神社の北側の鳥居の向かいにある階段を上ると、本丸の入口である一の門と、そこから続く南多門があります。ともに昭和35年(1960年)に復元されました。

天守

そして本丸到着です。外観4重、内部5階の堂々とした複合式望楼型天守がそびえています。築城は慶長16年(1611年)ですが、天守は江戸中期の元文3年(1738年)から寛保3年(1743年)にかけて大改修が行われ、外観に変更が加えられています。正保絵図に描かれているのは大改修前の姿で、現在残っているのは大改修御の姿とは二重目・三重目の千鳥破風が撤去されるなど違いがあります。

参考:出雲国松江城絵図(国立国会図書館デジタルアーカイブ)

天守に突入する前に、外観上の特徴を1つ。

全体が黒塗りなので判りにくいですが、下層の屋根を貫通するという珍しい形状の石落としがあります。

こちらは貫通式石落としほど珍しいわけではありませんが、大型の附櫓も松江城天守の外観を特徴付けています。天守内部へ入るにはこの附櫓を経由します。

長くなってきたので、天守内部は次の記事で。

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