脇本城

旅行3日目は、続100名城登城38城目となる秋田県の脇本城です。

脇本城について

歴史

脇本城は、安土桃山時代の天正5年(1577年)、安東愛季あんどう ちかすえ脇本城を大規模に修復し、檜山城から拠点を移したことで知られていますが、最初にいつ・誰によって築かれたのかははっきりしません。15世紀ないし14世紀中頃には既にこの地に城館が存在していたと言われていますが、現在の脇本城とのつながりは判りません。

愛季の子・実季さねすえは、愛季が脇本城に移った後は檜山城を譲られましたが、天正17年(1589年)に湊城に拠点を移し、秋田氏と称するようになりました。豊臣政権の時代となると、実季は秋田5万石の大名となりましたが、関ヶ原の闘いの後に日立へと国替えになりました。その頃にはすでに脇本城は廃城となっていたとされています。

その後、生鼻崎の海側の曲輪は文化7年(1810年)の大地震によって数百mにわたって崩落したとみられています。

構造

日本海に臨む男鹿半島の付根、標高100mほどの生鼻崎おいばなさき丘陵に築かれた山城です。城は大きく内舘地区・馬乗り地区(古館)・兜ヶ崎地区などにわかれています。このうち中心となる内舘地区は、古来からの男鹿半島へ続く道である天下道を挟み込むように曲輪が配置されています。天下道の北側・南側それぞれ、曲輪が一列に配置される連郭式のような構造になっています。

見学ガイド

現在は内舘地区に見学路や案内板が整備されています。

いざ登城

脇本駅

脇本城は男鹿半島の付け根あたりに立地します。最寄り駅はJR男鹿線の脇本駅です。2日続けて朝イチの男鹿線で出発です。

朝7:30頃に脇本駅到着。って、昨日の男鹿駅とずいぶんイメージ違いませんか!?男鹿駅はリニューアルされてつるつるピカピカなのに、脇本駅はホームに草ボウボウです。

駅舎と駅前広場…といっていいのかな。脇本駅は無人駅で、駅舎内には小さな待合室があるだけです。でもSUICAが使えます

トイレは駅舎内にはないのですが、この写真の右フレーム外に独立した建物の公衆トイレがあります。JRサイトの脇本城平面図にも記載があるので、一応駅施設という扱いのようです。

コインロッカーは駅舎内にはなく、駅周辺にも見当たりませんでした。山城攻めをするには不便ですね。

道のり

JR脇本駅から脇本城登城口までは2.5kmほどあります。平均的な大人の足で徒歩35分ほど、全体的に緩い下りなのでそこまで体力的には負荷はかからないはず…

…だったのですが。GoogleMapで調べた徒歩最短経路と思われる道を進んでいたら…途中で道がなくなりました…。一時的な通行止めではなく、最初から道がないような感じでした。ってどういうこと?

おいおい、と思いつつ途中まで引き返して2番目の候補の道を進んだら…

ここ、進んでも大丈夫なんだろうか…。一応ちゃんと道はつながっていたのですが、なかなか大変な道でした。遠回りに見えても車道に沿った道を選んだ方が無難だったようです。なんだか実際以上に無駄に体力を消耗した気分です。しっかりしろGoogleMap。

なまはげ館

途中、『なまはげの館』なる建物がありました。

なまはげの実物大人形が展示されていますが、建物自体は無人です。そしてけっこうな長い期間補修されていないような感じの建物でした。階段が壊れていたし…。いったいどんな目的で建てられたのか判りません…。

建物の裏側に回ってもなまはげがいます。一体倒れてますが。

ようやく登城口

駅から約30分、脇本城登城口へ到着。この写真を撮影している位置は見学者&参拝者(登城路途中に神社があります)むけの駐車場のようです。

鳥居から続く階段と、その手前に坂がありますが、これらは途中にある菅原神社前で合流しますのでどちらを登ってもOKです。坂の方は車でも上れますが、登った先の駐車スペースは非常に狭いです。タクシーを利用すればかなり楽に登城できそうです。ただ脇本駅前からタクシーに乗車したければ事前に予約が必要でしょう。

車道の方を上っています。道幅は乗用車が1台通れる程度で、たぶん車がすれ違えるポイントはここだけです。

登る途中にある菅原神社の鳥居です。このあたりで先ほどの坂道と階段が合流します。参拝は後回しにして、さらに坂道を登っていきます。

※鳥居の奥の階段を上っても、神社拝殿脇から坂道に合流できます。

車はここまで上ってこられます。奥のプレハブ小屋が案内所、左手のすこし空いたスペースは駐車場として使えるようですが、ご覧の通り狭いので、見学者の多いシーズンだと『登ってきたけど場所が塞がっていた』ということもありそうです。

写真左端に写っているのは簡易トイレです。駅から遠く、途中に利用できそうな公衆トイレがないので、ここにトイレがあるのはありがたいです。

ところで、ここまで上ってきた車道はほぼ天下道(古道)に沿っていたのですが、写真右手の看板のあたりからは現在の道と離れて右側にそれていたようです。が、草木の元気がよすぎて入口が判別できませんでした…。

案内所

脇本城跡案内所です。続100名城スタンプはここです。無人ですが常時開放されているようです。

案内所内には続100名城スタンプの他、パンフレットやいくつかの展示があります。

散策モデルコースが示されていました。今回はこの図の赤矢印の範囲を見て回ります(回る順番は一部違います)。

案内所から先に進み、いよいよ脇本城の曲輪が見えてきました。

天下道南側(海側)

ここで、現地の案内図(上の写真の左寄りに写っています)を見てみましょう。脇本城内舘地区は、東西に走る天下道によって南北に分けられています。天下道の南側は、海(南)に向かって伸びる峰の上に一列に曲輪が配置されています。よく見ると、峰の東側に一段下がったところにも曲輪が並んでいます。

天下道の北側は、東西に延びる峰の上に曲輪が一列に並んで築かれています。こちらの方が平坦部が広く、城主の居館がおかれるなど城の中枢としての機能を有していたようです。

このように、大手道をはさんで北側は東西に曲輪が並び、南側は南北に曲輪が並ぶ、連郭式の山城が直角に接続されたような構造になっています。

下段

まずは案内図からすぐ、生鼻崎の海に向かって伸びる曲輪群から観ていきましょう。写真は案内板の位置から南を向いて撮影しています。写真右手の斜面上が峰のてっぺんで、主要な建物はそちらにあったようです。ここは峰の東側に一段下がった位置です。峰の西側が急斜面なのに対して、東側は傾斜が比較的緩やかなので、もう一段曲輪を設けて防衛力増強を図ったのかもしれません。便宜上、この記事では峰のテッペンに並ぶ曲輪群を『上段』、東側に一段下がった曲輪群を『下段』と呼んでいますが、正式な名前ではありません。

この下段の曲輪は広い1つの曲輪にも見えますが、よくみると土塁でいくつかに区切られています。

案内図によると、この下段の曲輪には2カ所の井戸後があります。が、現在は円形のかすかなくぼみが見られるだけです。

下段の曲輪の中程、さらに東側にもう一段下がったところにも小さな曲輪があります。ここにも井戸跡があります。

上段の曲輪を区切る竪堀。ここから上段の曲輪に登ってみます。

上段

竪堀から上段、生鼻崎南端の曲輪に上りました。西側(写真右手)に土塁が残っています。南側(写真奥)に一段高い曲輪があるように見えますが、草ボウボウ&ロープが張られていてこれ以上は進めません。かつてはこのさらに先にも曲輪が続いていたらしいのですが、江戸時代の大地震で崩落したと言われています。現在はこのすぐ先で崖になっています。

南端の曲輪から振り返り、北に向かって撮影。一直線にならんだ生鼻崎上段の曲輪群の様子がよく判ります。

生鼻崎上段の中でもっとも高い位置にある曲輪です。北を向いて撮影しています。このあたりには家臣の屋敷が並んでいたと考えられているそうです。

西側(左手)の土塁は最南端の曲輪からずっと続いています。土塁上には板塀の跡と思われる溝と穴がみつかっているそうです。

土塁の上から、城の西側を見ています。この先は男鹿半島です。ほぼ正面にはなまはげ館のある真山(昨日行きました!)、その左手前には船川港が見えています。

こちらは最高位置の曲輪の北隣の曲輪です。南西部(写真左手)の一角だけ少々高くなっています。案内所にあった復元イラストではここに建物があるのですが、なにか特別な意味がある建物だったのでしょうか。

天下道北側の曲輪を観ています。画面中央を奥に向かう大空堀の左手に虎口があります。大空堀の右の曲輪から右フレーム外にむかうと大土塁と城主館跡があります。

大手道北側

天下道沿いの低くなっている領域。写真の位置には『屋敷跡』と立札がありましたが、確かにある程度大きな建物を建てられそうな平面です。右奥に細い道のような物は案内所からここまで上ってきた道とは別なのですが、これが天下道の痕跡かな…。

空堀・虎口

大手道北側の空堀です。左手の斜面に虎口があるはずなのですが、形状がよく判りません。

先に大土塁や城主館跡などの見所のある東側に登りました。写真は空堀ごしに向かいの虎口あたりを観ています。復元イラストと見比べてみると、写真右手の立て札があるあたりからL時に折れ曲がって上って行く窪みが虎口跡でしょうか。

南側(生鼻崎)を観ています。左から来て大きくカーブして画面奥にのびている道が案内所から続いている道です。登った先が天下道南側上段の曲輪群、道沿いの大きな案内板のあるところから奥に向かう平坦部が天下道南側下段の曲輪群です。

カーブしている道のすぐ手前、右手に向かっているのが天下道跡でしょうか。

空堀を背に東を向いて撮影。正面には大土塁が見えます。

前の写真の左奥、館神堂跡です。三方を土塁に囲まれた小さな領域です。ここから大土塁の上に上れます。

大土塁と城主館跡

大土塁に上り、東側の曲輪を見ています。大土塁に三方を囲まれた領域には城主の館がありました。

よく見ると、大土塁の3辺を閉じるように低い土塁があり、その一部が切れて門のようになっています。大土塁は高さ最大6mあるのですが、低い土塁は数十cm程度しかないため、草の背が高い季節だとわかりにくいです。かえってこのくらい離れた方が観やすいかもしれません。

大土塁南東隅(前の写真の右上隅あたり)より。奥に向かって高くなっていることが判ります。

城主館跡のある曲輪の東端からは、脇本町の市街地を見下ろすことが出来ます。脇本城は関ヶ原の戦の頃までに廃城になってしまっているのですが、現在の市街地は橋本城城下町の道筋などをあるていど残しているようです。

右手は日本海です。左手奥にも水面のようなものがみえますが、これは海ではなく八郎潟の調整池だと思います(電車で移動するとけっこう時間がかかるのですが、直線距離は案外短く5~6km程度しかありません)。

空堀西側

空堀まで戻り、西側の曲輪に登りました。この写真は虎口周辺を撮影しているはずなのですが、対岸から見た写真の方が判りやすかったですね…。

西側へ一段のぼった曲輪です。面積が広く、井戸を2つ備えています。

さらに西へ。内舘地区北端&大手道北側では一番高い曲輪です。ここでは掘立式の建物跡が発見されているそうです。

これで内舘地区全体を回ったことになります。
他に少し離れた場所に『馬乗り場』があるのですが、片道15分以上かかるようなので時間的にちょっと無理でした。電車がもっと密にあれば行けたかもしれませんが…いや体力的にも難しかったかな…。

おまけ・菅原神社

下山途中に、ちゃんと菅原神社にお参りしてきました。

菅原神社といえば牛の象ですね。

帰りは坂ではなく神社の参道の階段を下ってみたのですが、こちらは利用する人が少ないのか荒れて歩きにくいわ蜘蛛の巣には何度も引っかかるわ…。

まとめとデータ

本文で触れていませんが、内舘地区の各曲輪は草がきれいに刈り込まれて散策しやすくなっています。定期的にボランティアの方々が整備しているのだそうで、本当にありがたいことです。

Webサイト男鹿市公式サイト内の紹介ページ
地図GoogleMap
アクセスJR男鹿駅より徒歩35分
開館時間自由見学、ただし照明設備はないので夜間の見学は不可
休館日なし
入場料無料
備考続100名城スタンプは史跡脇本城跡案内所(本記事の写真参照)
トイレは案内所付近にあり
駐車場は登城口前、菅原神社鳥居前、案内所前にあり
飲料自販機なし

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