八代城 1

続100名城、登城16城目は、熊本県の八代城(190番)です。

八代城復元模型写真(南側入口前の案内板)

八代城について

歴史

八代城以前、この地には麦島城がありました。加藤清正が肥後藩主となると、清正は麦島城に重臣の加藤正方を城代として送ります。一国一城令により各藩の城が1つだけに制限される中、肥後藩の麦島城だけは例外的に存続を許されました。

※肥後だけ例外的に『一国二城』が許された理由には、『薩摩への牽制』『キリシタン弾圧の備え』『異国船への備え』『加藤家の力を削ぐ』…など諸説あります。

しかし、元和5年(1619年)の大地震により麦島城は大被害を受け廃城となってしまいました。二代目藩主の加藤忠広(加藤清正の子)は、元和6年(1920年)に幕府の許可を受けて代わりとなる城の築城を開始。元和8年(1622年)に完成した城が現在の八代城です。麦島城に引き続き、加藤正方が城代となりました。

寛永9年(1632年)、主家である加藤忠広が改易されると、正方も城を去って隠居しました。その後、細川忠利が肥後藩の藩主となると、忠利の父・忠興が八代城北の丸を隠居所とし、本丸には忠利の弟・立孝が入りました。立孝が若くしてなくなり、忠利も没した後、正保3年(1646年)に細川家筆頭家老の松井興長が八代城主となりました。その後、明治時代の廃藩置県まで八代城は松井氏の居城でした。

構造

八代城は、本丸を中心に、東~南を二の丸、西を三の丸、北を北の丸で囲み、北の丸のさらに北側に出丸を配置した輪郭式の平城です。本丸の周囲と、二の丸・三の丸・北の丸の外側には堀が巡らされ、本丸は北と東の橋でそれぞれ北の丸・二の丸と連結されていました。

見学ガイド

八代城は現在、本丸跡が城址公園として整備され公開されています。建物はまったく残っていませんが、本丸の周囲を囲む石垣と水堀が観られます。JR八代駅から直線距離で2kmほどなので駅から徒歩アクセスも可能ですが、八代市役所がすぐ近く(というか市役所があるのは二の丸跡)なのでバスでのアクセスも容易です。

近くにある八代市立未来の森ミュージアムは続100名城スタンプ設置施設であり、また八代城復元模型や欄干橋の擬宝珠も展示されており、併せて見学することをオススメします。本丸北西には城主・松井家の庭園・松浜軒があり、こちらも見学可能です。

いざ登城

先に未来の森ミュージアム・でんでん館・松浜軒を見学してからの登城です。時刻はもうすぐ16時、入城時間制限はないと思いますが日が暮れたら見学できません。ちょっと急ぎます…。

松浜軒からすぐ、本丸北西角にある天守台が見えてきました。人影がみえるので登れるようです。

裏桝形門(搦手口)

城内へは本丸北部にある裏桝形門から。現在は普通の橋が架かっていますが、元は廊下橋(壁や天井がある橋)だったそうです。

搦手口の橋を渡ってすぐ、西山宗因の句碑があります。碑自体が目立たない上に、苔に隠れて文字がほとんど読めません…。資料によると、

『雪見よと 兼ては 植えし 浦乃松』

と刻まれているそうです。

西山宗因は加藤清正の家臣・西山治郎左衛の子で、八代城代・加藤正方の側近でした。主家改易により加藤正方が城を去ると俳諧を始め、談林派の中心として活躍しました。宗因の作風は松尾芭蕉にも影響を与えています。

搦め手門枡形をVRで。

北の丸から廊下橋を渡ってすぐの位置(VR写真初期方向左手)には廊下橋門があり、直角に曲がった先、本丸に入る位置(初期方向正面)には埋門(櫓門)がありました。

表枡形門(本門)周辺

八代城址は外周に沿って遺構が存在しているので、いったん外へ出て本丸東側の表枡形門へ向かいます。もとはこちら側が本丸の表門でした。

本丸東側で二の丸と本丸の間を結んでいたのが欄干橋です。

欄干橋にある擬宝珠のうち1つは築城当時のもので『元和八年』(=1622年)と刻まれている

…と、多くの観光ガイド本やWebサイトには書かれているのですが、現在は新しいものに取り替えられています。取り外された古い擬宝珠は未来の森ミュージアムに展示されていますので、ぜひミュージアムも見学することをオススメします。

※ミュージアム展示室内は撮影禁止だったので、擬宝珠の写真はありません。

この欄干橋を渡った先が本丸表門です。橋を渡った正面には高麗門、左手の石垣の上には磨櫓、奥で右手に曲がると頬当御門がありました。

表門枡形をVRで。初期方向正面が本丸内側で、両側の石垣を跨いで頬当御門がありました。初期方向右手が二の丸側で、高麗門がありました。ちなみに、欄干橋の向こうに見えているのは八代市役所本庁舎です。

八代宮周辺

次は南側に回ります。

本丸南側には、八代宮へ渡るための神橋がかけられています。この橋は城時代には存在しなかったもので、石垣の開口部も後から作られたものです。

城時代の入口ではないので、当然枡形はなく、橋を渡るとすぐ八代宮です。

八代城本丸御殿跡にある八代宮は、明治時代に創建された神社で、祀られているのは懐良かねよし親王良成よしなり親王です。懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、南北に分かれた朝廷が争っていた時代、南朝の征西将軍として九州に派遣され、肥後を拠点として北朝側の足利氏と戦いました。墓所が八代にあることが八代宮創建に繋がっています。

良成親王は後村上天皇の皇子で、叔父に当たる懐良親王から征西将軍を譲られたとされています。八代城(現在の八代城とは別)を拠点にして戦ったこともあります(ただし北朝側の今川貞臣(あの今川義元の傍系尊属)に破れ、八代城を失っています)。

八代宮の鳥居の手前で右(東)に折れて少し進むと、庭園の石組みのようなものが観られます。

次の記事では石垣の上に登ります。

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