水戸城

梅見も兼ねて水戸城の見学に行ってきました。2009年以来、10年以上ぶりの訪問です。前回の見学時から新たに大手門・二の丸角櫓・土塁・堀が復元され、『城』としての見学ポイントが増えました。

水戸城について

歴史

水戸城といえば、有名な徳川光圀はじめ、水戸徳川家の居城として有名ですが、この地に城が築かれた始まりはそれよりはるかに古く平安末期まで遡り、築城主は常陸国国司・常陸平氏の末裔である馬場大掾だいじょう氏とも呼ばれる)資幹だといわれています。このため、長くこの城は 馬場城 と呼ばれていました。

室町時代、当時の城主であった大掾満幹が城を離れた隙に江戸通房えど みちふさが水戸城を占拠してしまいます。満幹はその2年後に鎌倉で暗殺され、水戸城は完全に江戸氏のものになります。

豊臣秀吉の小田原征伐の際、江戸氏当主の江戸重通は北条氏側につき、元・主家である佐竹義重・義宣は豊臣側につきました。これにより戦後、佐竹氏が常陸国を与えられることになりました。佐竹氏は馬場城を攻めて江戸氏を追放し、馬場城は佐竹氏のものとまりました。佐竹義宣は本拠を馬場城にうつし、城の名を水戸城と改めました。

しかし佐竹氏は関ヶ原の戦い以降、徳川氏に対して味方する態度を取りませんでした。そのため佐竹氏は慶長7年(1602年)、徳川家康によって水戸から秋田へ転封されてしまいます。同年、奥州に対する備えとして武田信喜(徳川家康の五男、母親が甲斐武田氏の支流の出身であったことから武田の名跡を継いだ)が水戸城の城主となりますが、翌年に信喜が跡継ぎを決めないまま21歳の若さで病没してしまったため、家康の十男の徳川頼信よりのぶが水戸20万石を与えられます。頼信は当時まだ2歳のため水戸城には入城せずに駿府の家康のもとにとどまり、そのまま7歳の頃に駿府に転封になっています。その後、慶長14年(1609年)に家康の十一男の徳川頼房よりふさが水戸城に入場して水戸藩初代藩主となり、水戸徳川家が誕生します。これ以降、幕末までずっと水戸城は水戸徳川家の城でした。

順房は水戸城を整備し、二の丸に三階櫓に建造しました。が、天守は作らず、また櫓も他の城に較べて少なく、全体的に質素な印象の城となったようです。天保12年(1841年)には当時の藩主である徳川斉昭なりあきによって藩校・弘道館が三の丸に、庭園・偕楽園が城の西側に建築され、これらは現在も残っています。

構造

城の北側を流れる那珂川と、南側を流れる桜川と千波湖を天然の堀とし、その間を東にむかって伸びる細長い台地の上に、東端から西にむかって下の丸(東二の丸)・本丸・二の丸・三の丸が一列に配置された連額式の構造です。よく連額式城郭の代表例として挙げられるほどきれいに曲輪が並んでいるので、書籍などで縄張り図を観たことがある人も多いでしょう。

見学ガイド

JR水戸駅から徒歩でいける距離なのでアクセスは容易です。城址公園のような形にはなっていませんが、

三の丸には堀跡と藩校・弘道館があり見学可能です(弘道館は有料)。

二の丸は面積の大半が学校で立ち入ることができる部分が少ないのですが、令和2年(2020年)に大手門が、令和3年(2021年)に二の丸隅櫓が復元され、中央を通る道路沿いに展示館も開館しています。各学校も校門を和風のデザインにするなど、城としての雰囲気作りをしています。

本丸は茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校となっていますが、貴重な現存建築である薬医門が校内にあり、薬医門までの範囲に限って学外者でも立ち入り可能です。

今回の散策ルート

いざ登城

JR水戸駅北口を出るとすぐ目に入る、例のトリオの像。水戸黄門のモデルが水戸藩の第2代藩主・徳川光圀であるのは有名ですが、助さん・格さんもモデルとなった実在の人物がいます。とはいえこのトリオで全国漫遊したという史実はないのですが。

三の丸

駅近く、大銀杏のある交差点から旧銀杏坂を上っていくと、すぐ水戸城三の丸です。ただし三の丸南側は水戸市立三の丸小学校の校地となっており立ち入ることができません。

以前来たときにはこんなものはあったかな?大型の冠木門ですが、これは三の丸小学校の校門だそうです。中に入るわけには行かないので、塀に沿って西側へ折れて進みます。

冠木門のすぐ近くには本間玄調像があります。本間玄調は江戸末期から明治時代にかけて活躍した医学者・俳人で、水戸藩の侍医として天然痘予防接種の普及に努めた人物です。

県庁周辺

三の丸の西側にやってきました。現在は県庁三の丸庁舎前の大通り(国道118号線)沿いですが、巨大な空堀と土塁が復元されています。

こちらも三の丸西側の空堀と土塁。この写真右奥の土塁を越えると県庁庁舎があります。

県庁三の丸庁舎の南側の広場は、三の丸の馬場跡です。

弘道館公園

県庁の東隣・三の丸の東半分には、弘道館公園および弘道館(有料エリア)がならんでいます。

種梅記碑。徳川斉昭公が弘道館や偕楽園などに梅を植えさせた由来が記されています。

碑文はちょっと読みづらいのですが、弘道館(有料エリア)内に拓本が展示されています。

八卦堂。弘道館建学の精神を記した弘道館記碑が納められています。が、中を見ることはできません。

鹿島神社。主祭神は武甕槌命で、常陸鹿島神社から分祀されています。

鹿島神社境内には徳川斉昭公お手植えの鈴梅があります。

遊歩道からちょっと離れた木の陰には要石歌碑があります。

『行末も ふみなたがへそ 蜻島 大和の道ぞ 要なりける』という歌で、文字は徳川斉昭公のものだそうです。また石は根府川産で、小田原藩主大久保忠真より贈られたものだといわれています。

少し離れたところに鹿島神社の鳥居があります。このあたりにも梅の木が多数。

学生警鐘。弘道館の学生に時を告げるための鐘です。鐘には徳川斉昭公の字による歌が刻まれていますが、現在ここにあるのは複製品で、オリジナルは弘道館内に展示されています。

孔子廟。残念ながら塀の外側からしか見られません。

北側土塁

弘道館の北西にある土塁。弘道館の建設にあたって土塁と堀が造成された位置で、2019年に図面にそって復元されたものです。

複雑に折れ曲がる土塁は食違虎口を形成しています。

土塁の高さは不明なため、現存している部分に併せて作られたそうです。

偕楽園に較べるとずっと小規模ですが梅園があります。

弘道館有料エリア内は、長くなりそうなので別記事にします。

二の丸

大手門

弘道館からさらに東に進むと大手門があります。その手前には徳川斉昭公像が…って小さいなこれ。そして無意味に3D写真化。

大手門前の橋の下は県道232号線が通っていますが、ここは三の丸の二の丸を隔てる空堀跡です。道路が通っているとそれとは認識しにくいですが、幅も深さも大きな、非常に大規模な堀だったことが判ります。

二の丸大手門。令和2年(2020年)に復元されました。幅17m、高さ13mの大型櫓門です。

大手門を二の丸側から。門の両側には瓦塀があります。瓦塀とは瓦と粘土を交互に積みかさねて作られたもので、櫓門の四隅を囲むように配置されています。瓦塀はそれぞれ幅2.7m、高さ4mあります。現在あるものは外観を復元したもので、内部にはオリジナルの遺構が発見当時の状態で保存されています。

こちらは2009年に撮影した写真です。現在大手門があるあたりから弘道館の方を向いて撮影しています。この写真中央に写っている大手橋が、大手門の写真の門の向こうに見えています。当時この通りは車道だったのですが、大手門の復元完成に伴い車両の通行ができなくなりました。

なお、2023年3月現在このあたりをGoogleMapで観ると、俯瞰写真には復元大手門が写っていて、ストリートビューだと復元工事前の状態と復元工事中で車両通行止めになった状態が混在していて、事情を知らないとワケが判らないことになっています。

二の丸展示館

二の丸は現在、面積のほとんどが学校地になっていますが、校門や塀が和風のデザインになっていて『城の中』という雰囲気をつくっています。この写真に写っている城門風の門は水戸市立第二中学校の校門です。このあたりは徳川光圀が命じた大日本史の編集所・彰考館の跡地で、校門の横には『大日本史編纂之地』の碑が立っています。写真右手には 二の丸展示館 があります。

二の丸展示館は入場無料で、発掘調査の状況などについて解説されています。

水戸城のジオラマもありました。大手門・大手橋との位置関係からすると、二の丸を縦貫する道路は城時代の通路をほぼそのまま引き継いでいるようですね。

飲料自販機と椅子もあるので、しばらく休憩することもできます。

二の丸展示館を出て本丸方面に少し進むと、安積澹泊あさか たんぱくの像がありました。澹泊は別名を覚兵衛かくべえといい、水戸黄門の格さんこと渥美格之進あつみ かくのしんのモデルになった人物です。水戸黄門の格さんは武術の達人という設定でしたが、澹泊は明の儒学者・朱舜水しゅ しゅんすいの教えを受けた頭脳派で、大日本史の編纂にもたずさわりました。

ところで、水戸黄門の助さんこと佐々木助三郎も実在の人物・佐々宗淳さっさ むねきよ(別名を介三郎、水戸黄門の助さんとは漢字が違う)をモデルとしていると言われているのですが、像がみつかりませんでした(案内地図にも表記なし…)。水戸黄門の助さんは剣術の達人で格さんとは同年代の相棒のような関係ですが、佐々宗淳は安積澹泊より15歳も歳上で、大日本史編纂の中心的であり澹泊にとっては上司のような存在だったようです。

二の丸隅櫓

安積澹泊像と道を挟んだ向かいあたり、写真中央付近に茨城大附属小学校の校門(右)と水戸第三高校の校門(左)が並んでいるのですが、よくみるとその間に小さな通用門のようなものがあります。ここを入ると復元された二の丸角櫓に行くことができます。
ちなみにGoogleストリートビューでは、撮影時期が古いのかこの門を見つけることができません。

両側の学校が見えないように、ということなのか、高めの塀に挟まれた細い通路です。

二の丸角櫓。令和3年(2021年)に復元されたばかり、まだ新しい見学スポットです。

二の丸角櫓は中も見学できます。この部屋には復元工事についての解説パネルがあります。

復元工事の様子を紹介するビデオ上映中。

二階部分も復元されているようですが、残念ながら見学者は登れません。

こちらは櫓の構造についての展示が。

水戸城の門扉。これが発見されたことで、大手門や二の丸角櫓の復元・二の丸の景観の整備が始まるきっかけになったという記念すべき歴史資料です。

杉山門と見晴台

さらに先に進むと杉山門です。門のすぐ手前から左手に向かって下り坂が延び、二の丸の北の玄関口になっていました。

杉山門の近くから二の丸北辺にある見晴台に行くことができます。ここも細い通路が作られています。写真左側はすぐ水戸第二中学校の校庭です。

見晴台は水戸第二中学校校庭のネットの裏にあります。

見晴台からは水戸城の北側を流れる那珂川を見下ろすことができます。

本丸

二の丸を貫く道をそのまま真っ直ぐ進んでいくと、本丸へと渡る本城橋があります。

本城橋の下は鉄道(水郷線)の線路がありますが、ここは二の丸と本丸を隔てる空堀跡です。非常に大規模な堀だったことが判ります。

本丸は全域が水戸第一高校の校地で、本城橋を渡るとすぐ校門なのですが、校地内・この写真の奥に見える薬医門までは学校関係者以外でも立ち入り可です。予約・申請などは必要ないようです。なお、校門が開いているのは 8:30~16:30 ですので、見学はその間に。

この薬医門は水戸城の建造物の中では唯一の現存建築です。ただし一度城外に移築されてから昭和56年(1981年)にこの場所に移築されたもので、本来の場所がどこだったのか、はっきりとは判っていません。

構造や形状から、徳川時代より前、佐竹氏が城主だった頃に建てられたものだと考えられているそうです。

もっとも東にある曲輪・東二の丸は第一高校のグラウンドになっており、学外者の立ち入りはできないようです。

駅に戻るまで

本丸をでて本城橋で二の丸にもどり、二の丸東端の坂を下って駅の方へ向かいます。

坂を下り始めてすぐ、水戸藩初代藩主、徳川頼房の像がありました。

さらに少し下ったところに、棚町坂下門が復元されています。これは二の丸の南側の出口でした。

水戸駅前まで戻ってきました。水戸駅北口に接続するデッキの上から、二の丸隅櫓がよく見えます。

まとめとデータ

水戸はなんども訪れているのですが、今回初めて『城』の全体像を観ることができたように思います。過去の訪問では弘道館と偕楽園くらいしか観ていなかったので…。大手門と二の丸隅櫓が復元されたのが大きいですね。

Webサイト水戸観光コンベンション協会による案内
地図GoogleMap(二の丸大手門)
GoogleMap(本丸薬医門)
アクセスJR水戸駅より徒歩10分
開館時間二の丸大手門:随時
二の丸展示館:9:00~16:30
二の丸隅櫓:9:30~16:00
本丸薬医門:8:30~16:30
休館日二の丸大手門:とくになし
二の丸展示館:年末年始
二の丸隅櫓:年末年始
本丸薬医門:学校行事などで入校できない場合あり
入場料別記事の弘道館以外は無料

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