弘道館

水戸城内にある弘道館を見学しました。水戸城跡の遺構・展示施設・復元建物の中では唯一の有料施設です。

弘道館について

水戸城三の丸にある弘道館こうどうかんは、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭とくがわ なりあきが設立した藩校です。天保11年(1840年)に建築が開始され、翌天保12年(1841年)に仮開館、様々な不備を解決して正式に開館したのは安政4年(1857年)のことでした。

弘道館は正庁(管理棟/本校舎)の他、文館・医学館・天文台・馬場・調練場・矢場など文武を学ぶ施設の他、鹿島神社や孔子廟(儒教の創始者である孔子を祀る施設)まで備えた総合教育機関で、当時重要視されていた儒学の他、歴史・天文・数学のような現代の学校にも通じる学問や、剣術・柔術・馬術・鉄砲などの武芸、さらに和歌や音楽などの芸術分野まで、幅広い教育が行われていました。また施設規模も大きく、敷地面積は10.5haと藩校としては最大規模を誇ります。

弘道館は仮開館から32年後の明治5年(1872年)の学制発布によりその役目を終えますが、それまで多くの人材がここに学びました。現在は敷地の一部(3.4ha)が国の特別史跡に指定され、建物内も含めて一般公開されています。

では見学を

弘道館有料エリアの入口は、三の丸の東側、ちょうど二の丸大手門と向かいあうあたりにあります。写真には門が2つ写っていますが、左側の一段高い場所にあるのは藩主の来館など特別なときにだけ使われる正門で、右手にあるのが通用門です。見学者も通用門から入ります。

正門の右側の門柱をよく観ると、穴が空いているのが判ります。これは明治元年(1868年)に発生した『弘道館の戦い』といわれる水戸藩内の抗争によってできた弾痕だそうです。

午前中に行った方が日の光が当たって見やすかったかも…

通用門を入ると、すぐ右手には弘道館に出入りする人・弘道館前を通る人を監視する番所があります。

番所の前を通り過ぎた先にチケット売り場があります。

正庁

弘道館正庁です。東日本大震災で大きな被害を受けて一時公開を休止していましたが、修復・補強工事を経て2014年に公開再開しました。

玄関

入口には『弘道館』の扁額が掲げられています。この文字は徳川斉昭の筆によるものだそうです。

玄関の脇にある像。右が徳川斉昭、左の少年は七郎麻呂(後の徳川慶喜よしのぶ、江戸幕府最後の将軍)です。そういえばこの二人は実の親子ですね。

弘道館の平面図。左下部分が学校の管理棟/本校舎に相当する『正庁』、右上部分が藩主控室・藩主子弟の学習の場である『至善堂』という建物です。間は十間廊下で結ばれています。

各部屋

玄関を入ってすぐの『諸役会所』、来館者の控え室です。正面の床に掲げられた『尊攘尊皇攘夷)』は幕末日本を象徴する言葉となっていきます。文字は水戸藩藩医の松延年によるものです。

正庁の中心部、二の間(手前)・三の間(右奥)・正席の間(左奥)。

正席の間。違棚や床の間のある、格式の高い部屋です。ここでは藩主が臨席しての文武の試験が行われました。現在、床の間には弘道館公園にあった弘道館記碑の拓本が掲げられています。弘道館記には建学の精神が記されています。

二の間~正席の間の外、対試場に面する縁側には『游於藝(=芸に遊ぶ)』の扁額が掲げられています。論語の一節『子曰く道に志し徳に依り仁に依り芸に遊ぶ』から取られた言葉です。芸とは六芸=礼(礼儀作法)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(習字)・数(算術)を表します。
文字は徳川斉昭の筆です。

木の引き戸の先には畳廊下~至善堂へと続く十間廊下が伸びています。ここから先は藩主・藩主子弟専用エリアということで扉で隔てられているのでしょう。

湯殿・便所

畳廊下の脇には藩主専用の風呂・トイレがあります。最初の写真はトイレの手洗い場です。水道はないので桶に水をくみ置きして使用したのでしょう。上面に竹が並べられた台のようなものは、水を流せる構造になっているようです。

小用便器っぽいですね。板が立てかけてあるだけのようにみえますが、下部で建物外に排水するしかけになっているようです。

こちらも現代の和式便器に通じる形状ですね。

こちらは湯殿(バスルーム)です。バスタブも湯沸かし施設もなく、湯や水は外で湧かして運び込まれたようです。よく観ると床がV字型に傾斜して中央には排水路のような溝があり、奥には排水口と思われる穴があいています。

至善堂へと続く十間廊下。幅も広いです。十間ということは18mあるのかな?(1けん=6尺≒1.8m)

至善堂

十間廊下を渡った先は藩主の休息所、藩主子弟の勉学のための領域、至善堂しぜんどうです。至善堂の名は、儒教の経書の一つ『大学』の一節『大学之道 在明明徳 在親民 在止於至善(大学の道は 明徳を明らかにするに在り 民に親しむにり 至善に止まるに在り/大学教育の道とは、明徳をあきらかにし、人民と親しませ、善の境地に至りその状態にとどまることにある)』から取って徳川斉昭が名付けたものだそうです。

三の間と四の間。藩主子弟の勉学の部屋でしょうか?

至善堂の一番奥にある 御座の間。藩主の休息所です。慶応4年/明治元年(1868年)、大政奉還して将軍職を辞し、水戸へ下った徳川慶喜はこの部屋で謹慎して朝廷の命を待っていました。もともと水戸徳川家の出である慶喜にとっては、弘道館は幼少期にも過ごしたことのある場所でした。

床の間に飾られているのは弘道館公園にあった要石歌碑の拓本です。

至善堂四の間は展示室になっています。これは雲龍水(消防ポンプ)。かつて弘道館に備え付けられていたものだそうです。

三葉葵の紋の入った長持。将軍職を辞した徳川慶喜が水戸に下る際に使用したものだそうです。

屋外

梅林

外に出て庭園を一周してみます。弘道館の敷地内には多数の梅が植えられて非常に見栄えがしました。

文明夫人(徳川斉昭夫人)の歌碑。文字はかすれてほとんど判別できないのですが、

『天さかる ひなにはあれと さくら花 雲の上まで さき匂はなん』

という、花を讃えた歌の由緒が刻まれています。

かつてはこの梅林のあたりに文館の建物がありましたが、弘道館の戦いの折に焼失してしまいました。

対試場

『游於藝』の扁額が掲げられた縁側の前には、対試場(武術の試験場)があります。
10×6間(約18×11m)の広さがあり、周囲は土塁で囲まれています。

烈公梅

ほぼ一周したところにひときわ大きな梅の木があります。これは『烈公梅』とよばれる品種で、水戸にしかないのだそうです。

データ

Webサイト水戸観光コンベンション協会による紹介
観光いばらきによる紹介
日本遺産ポータルサイトによる紹介
地図GoogleMap
アクセスJR水戸駅より徒歩10分
開館時間2/20~9/30:9:00~17:00
10/1~2/19:9:00~16:30
休館日12/29~12/31
入館料大人400円、小中学生200円
※クレジットカード、電子マネー、QRコード対応

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