13時すぎ、山形駅到着。
米沢よりずっと大きく、近代的な駅舎。
早速駅ロッカーに荷物を入れて、山形城へ。
駅から数分。
山形城の堀に到着。
【南不明門】から中へ。
【南不明門】は車が通れるほどの大きな門。
例によって2回直角に曲がって中に入ると…
なに、ここ?!
どうみても体育館、それも裏…。
『○○中学校、集合して下さい…』
とかすかに放送が聞こえてきます。
中では大会が行われているようです…。
つまり。
山形城は二の丸周囲の堀と土塁は残っているものの、内部は市民体育館や休場、公園、野外音楽堂などが並び、当時の面影はほとんど残っていないのです。
点在する遺構・記念物をたどって一周することにします。
まず、体育館脇から左手に進み、少年野球チームが練習をしているグラウンドの脇を通り抜け、草ぼうぼうの道を歩いて【西不明門】。南門より小規模で車両の通行が禁止されているのと、大きな道路に面していないため静かです。
そこから二ノ丸西側の土塁の上へ。桜が並んでいます。
この道を進み、グラウンド脇を通り過ぎたところで土塁から降りると、そこは公園。
広さだけはかなりのもの。
遊具も滑り台やブランコなど一通りあるのですが…。
人っ子一人みあたりません。
日曜の昼過ぎ。
普通なら子供が大勢遊んでいても良さそうな物ですが。
…まぁ、写真で判るとおり周囲が木に囲まれ、なんとなく薄暗くて遊びにくい雰囲気でもあります。
この公園の一角に、ひっそりと建っている石碑が。
日露戦争凱旋記念碑。
まぁ、今の時代、軍隊の凱旋記念碑なんて流行らないのでしょうが…この扱いは酷いなぁ…。
ちなみに、山形城内に多数ある桜の木は、ここに駐屯していた陸軍連隊が植えた物だそうです。
さらに進んで、【北不明門】。
現在はここが一番大きな門で、車でのアクセスの場合は基本的にここから入ることになります。ここも門の石垣が残るのみで、当時の様子はほとんど判りません。
【北不明門】の外には、陸軍歩兵第32連隊の碑がありました。
さらに、堀を完全に渡った位置に【山形城址】とかかれた石碑。
【北不明門】から再び城内へ入り、さらに回って【東大手門】。
ここは山形城の正門。
堂々とした櫓が復元されています。
東大手門前はちょっとした広場になっていて、碑や像が並んでいました。
最盛期の山形城主、最上義光(よしあき)の乗馬像。
手にしている長い棒状の物は、刀ではなく指揮棒です。
この指揮棒、もちろんオーケストラの指揮者が持っているものとはまったく違い、
鉄製で長さは90cm近く、重さは1.75kgもありました。
振り回すどころかずっと持っているだけでも大変そうです。
北不明門外や西側の公園にも関連する碑ありあましたが、
【山形歩兵第32連隊の跡】碑。
沖縄戦に参加しながら、終戦まで組織としての体裁を保った数少ない部隊の1つだそうです。
【東大手門】の門櫓は内部も公開されていました。
当然、突入。
例によって石落とし。
櫓の構造だけでなく、山形城址の復元計画などについても展示されていました。
この写真はかつての山形城の姿の模型。
現在の本丸は、建物どころか二ノ丸との境界の堀も残っていないのですが、
今後野球場や体育館も取り壊し、本丸周囲の堀や石垣を復元する計画だそうです。
最終的な完成は平成45年頃。
うーん、その頃また見に…いけるかな…。
次に、東大手門から外に出て、【最上義光歴史館】の方へ向かいます。
東大手門を外から見た状態。
(パノラマ化でちょっと歪んでいます)
両側に多聞櫓が続いているという珍しい形です。
東大手門へと渡る橋の下をJRの線路がくぐり抜けるようになっています。
最上義光歴史館はここから歩いてほんの数分…。