伊賀上野城 その1

今回の旅行、最後に見学したのは伊賀上野城とその周辺施設です。

伊賀上野城について

上野公園内の案内図
(城址公園の現状)

歴史

伊賀といえば真っ先に連想されるのが忍者。でも今回見学に行った伊賀上野城は忍者とはまったく関係ありません。

この地には室町時代から守護大名仁木氏の館がありました。織田信長の子・信雄の家臣である滝川雄利が砦を築きましたが、本能寺の変の後に豊臣秀吉の家臣・脇坂安治が守護となりました。天正13年(1585年)に筒井定次が大和郡山から伊賀に移り、このときに仁木氏の館があった山頂を本丸とし、西に二の丸、北二三の丸を配した城が作られました。
しかし慶安13年(1608年)、定次は失策を口実に領地没収されてしまいました(家康が大阪城包囲の拠点として伊賀を欲したとか、定次がキリシタン大名だったとか、真の理由には諸説あるそうです)。

代わってこの地に入ったのが築城の名手とよばれる藤堂高虎です。高虎は筒井氏時代より西側に縄張りを拡張して本丸としました。本丸西側の濠と高石垣はこのときに作られました。
高虎はさらに五層の天守を作ろうとしましたが、完成直前の慶長17年(1612年)に台風で倒壊。慶長19年(1614年)~元和元年(1615年)の大坂の陣で徳川方が勝利して大阪城包囲の拠点としての役割がなくなったことから、天守は再建されないままとなりました。
その後、幕末まで伊賀上野城は藤堂氏の城でした。

現状

昭和初期に当時の衆議院議員であった川崎克氏が私財を投じて藤堂時代の天守台の上に三層の模擬天守を作り、それが現在みられる伊賀上野城の天守です。 つまり今の天守はまったく史的考証をされていない、単にそれっぽいだけの建物なのですが、当時の天守復元の一般的なやり方であった『鉄筋コンクリートによる外観のみの復元』ではなく木造日本建築のため、80年の歳月を経てほどよく古びた姿は現存天守のような味わいもあります。

城址公園全体としては筒井氏時代の城郭と藤堂氏時代の拡張部分が並んでいて、藤堂氏時代の天主台の上に模擬天守が建っているという構造にです。そのため『石垣から階段を降りると天守にたどり着く』という不思議なことになっています。

いざ登城

伊賀上野城の最寄り駅は『伊賀線』の『上野市』駅。しかし合併により『上野市』は消滅し、自治体名は『伊賀市』になっています。また、上野市駅とは別に『伊賀上野』という駅もあって(伊賀鉄道とJRの連絡駅)、紛らわしいことこの上ないです。まぁ上野市駅と伊賀上野駅は2kmくらいしか離れていないので、間違えてもあまり問題にならないかも…もし間違えて降りた場合は次の電車を待つより歩いた方が早いです。

松阪から近鉄で伊賀神戸まで移動して、そこで伊賀線に乗り換えです。
伊賀線のホームにはいろいろとネタが…早速柱の上に何かいるし…

来た電車はこんなだし…乗ったらネジにされる惑星に連れて行かれそうな…

これは青春の幻影な彼女ではなく、松本零士氏の描く『くノ一』だそうです。

途中ですれ違った車両。車体色はピンクで、先頭が顔になっているのは共通ですが緑の車両とくらべて目があまりつり上がっていないですね。

青い車体もありました。これが1番目がつり上がっています。

側面も目…なかなかインパクトのあるデザイン…

伊賀鉄道の公式サイトによると、伊賀線のすべての車両が忍者デザインというわけではなく、青・ピンク・緑の三編成だけなんだそうです。1日で全部観たのは運がいいのか…?

というわけで上野市駅到着。またしても柱の上に忍者が潜んでいます。

駅ロッカーも忍者…。

駅前には見覚えのある二人組が…。

駅の別の出口前には松尾芭蕉像があります。

では伊賀上野城へ向かいます。

上野市駅からすぐ、伊賀市役所前の坂を登っても城内に入れるのですが、小学校の前をすこし歩いてこの白鳳門から登ると登城の気分が出ます。

筒井氏時代の遺構

実はここから先、資料が見つからずどこがなんだかよく判りません。どこかで見かけた図面にざっくりこのあたりが『筒井氏の城跡』と書いてあっただけなので…。あちこち調査中っぽかったし。何年か経ってからまた行けばもっと見学しやすくなっているかも知れません。

このあたりの石垣は、筒井氏時代のものらしいです。

台所門跡、だったかな。

天守

天守の前にたどり着きました。三層の大天守と二層の小天守からなる連立天守です。
藤堂時代に建設が進められていた大天守は5層、現在の大天守は3層なので天守台よりもかなり小さく、周囲に余裕があります。
また小天守は、藤堂時代にもいまと同じ場所に2層のものがあったようです。

現在、大天守は三層すべて、小天守は一層のみ入れます。史実によらない模擬天守ながらなかなかよい姿です。なお、この模擬天守の正式名書は伊賀文化産業城といいます。

天守西側、藤堂氏が築いた高石垣
大阪城について全国で2番目の高さだそうです。

松阪城と同様、端まで行けるようになっていますが柵などはありません。落下死亡事故が起きたこともあるそうです…

それでは天守の中へ。

天守入口横に鯱が飾られていました。

大天守1階

天守1階。木造建築なので現存天守にも似た味わいがあります。
1階には城主であった藤堂家ゆかりの品などが展示されています。

藤堂高虎公座像と、、、隣のマスコットキャラが目立ちすぎて肝心な藤堂高虎公の印象が薄い…
このマスコットキャラは『た伊賀タイガーくん』というのだそうです。

『藤堂高虎出世物語』と題した解説パネルがならんでいましたが…
記念写真用の顔出しパネルか歴史の説明かどっちかにしてくれ…

藤堂高虎の兜。
急に振りむくと隣の人が危険な奴。

藤堂家で使用された乗馬鞍。本物かな?

大天守2階

天守2階には全国医の城の天守の写真がぐるっと飾られ、武家の調度品などが展示されています。

2階の展示物の目玉はこれ。
松尾芭蕉の遺品です。手前の四角い箱のようなものが文机、奥にあるのが旅笠です。

蒔絵の手箱など。

藤堂高虎公の肖像画もありました。

大天守3階

3階は展望台になっています。
中央のテーブルは城下町の模型になっていたのですが、写真失敗しましたOrz

3階の見所は天井に描かれた書画です。
高浜虚子とか横山大観とか、超有名人の筆によるものも…。

天守からの眺望、まずは石垣の残る城址公園側。木が邪魔であまり見えませんが…。

こちらは伊賀市街地方面。

上野市駅方面。いま上野市駅や、その手前の高校・小学校のあるあたりが二の丸でした。

小天守

小天守1階には忍び井戸があります。
藤堂高虎が築城を開始した当時は大阪城の豊臣氏が健在であったため、伊賀上野城は大阪城攻略に備えた作りとなっています。大坂城攻略で徳川方が不利になった場合はこの伊賀上野城に立て籠もることが想定され、水の確保のためにここに井戸が掘られました。深さは50間(90m)もあるそうです。

さらにこの井戸には途中三箇所に横穴が掘られ、抜け道が作られていると言われています。その長さは一里にもおよび、城の四方に通じていました。この抜け穴により、籠城時に兵糧を運び込む・援軍を引き入れる・または落城した後に外部から忍びを送り込んで攪乱する…なども考えられていたそうです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました