小谷城 その2

主郭部 中央(大広間~本丸)

大広間

黒金門の奥、大広間跡。南北85×東西35mの城内でもっとも広い曲輪です。
調査では建物跡、井戸跡、倉跡などが発見されているそうです。

大広間跡は別名千畳敷とも呼ばれているそうです。

大広間跡の奥は本丸です。大広間と本丸の間に大きな段差があることがわかります。
また破壊を逃れた石垣が残っているのも見えます。

井戸跡でしょうか。

本丸

本丸に上ってきました。南北40m×東西25m、大広間の1/3ほどの面積しかありません。

本丸の中ほどには南北を区切る段差がかすかに残っています。本丸はここで2段に別れた構造で、上段(北側)には櫓のある建物があったと考えられています。
『本丸に二層の天守があり、それが彦根城西ノ丸三重櫓はそれが移築されたものだ』という言い伝えもあるそうですが、彦根城三重櫓の解体修理ではそのような痕跡は見つかっていないとのことです。

主郭部 北(大堀切以北)

大堀切

さらに奥に進むと大堀切があり本丸と北部の曲輪との間を区切っています。
自然の地形ではなく尾根を削って人工的に作られたものだそうです。

この写真の手前が本丸、奥の盛り上がりが中丸です。左手(西側)の斜面の下には御局曲輪があり、御馬屋から続く帯曲輪と接続しています。

中丸

中丸は本丸の北側にある曲輪で、3段の階段状になっています。
段差の部分の一部に石垣が残っています。

中丸最上段にある刀洗池

京極丸

京極丸は大広間に次いで広い曲輪で、本来の主家である守護京極氏の居所だったとされています。
西側に清水谷(西側)から上る水の手に繋がる虎口があります(復元図参照)。織田信長に攻められた際、秀吉がこの水の手を攻め上り、中枢部の中ではこの京極丸が最初に陥落してしまいました。このため南側の本丸にいた浅井長政と、北側の小丸にいた父の久政が分断されて敗北につながったそうです。

小丸

京極丸より高い位置にある小丸。東西二段に分かれています。写真でも奧(東側)が少し高くなっているように見えます。
二代城主浅井久政が引退後に居住した曲輪です。久政は京極丸を落とした秀吉に攻められ、この場で自刃しました。

山王丸

山王丸さんのうまるは四段になったおり、最上部には山王権現が祀られていたそうです。
山王丸の周囲の石垣は城内最大規模で、この写真に見えている南面にも石垣が残っているのが見えます。

社があったのはどのあたりでしょうか…。

山王丸の東側に回り込むと、大規模な石垣が残っているのを見ることができます。
崩れた(あるいは人為的に破壊された)

ふたたび小谷城 主郭部中央

赤尾屋敷

桜馬場まで戻り、首据石近くの分岐を東に進んで赤尾屋敷へ向かいます。

赤尾屋敷は名前の通り浅井家重臣の赤尾氏の屋敷があったとされている曲輪です。本丸東側の腰曲輪の下に位置します。家臣の屋敷の中ではもっとも本丸に近く、赤尾氏が家臣団の中でももっとも重要な地位にあったと思われます。
曲輪は三段になって東下へむかって伸びています。写真は一番上の段で、ここに赤尾氏の屋敷があったようです。

赤尾屋敷は浅井長政自刃の地として知られています。
小谷城を攻める信長との戦いの中、長政は本丸から黒金門から討って出ますが、信長勢の攻撃にあい退却を余儀なくされます。しかし本丸への帰還はかなわず、赤尾氏の屋敷に入り、そこで自刃したのです。

写真は赤尾屋敷跡の奥に建つ、浅井長政自刃の地を表す石碑です。この石碑が建っている場所が長政自刃の場所をピンポイントで表しているのか、単におおまかにこのあたりに赤尾屋敷があったという程度のものなのかは判りませんが、二十九歳の若き武将が生涯を閉じた悲劇の舞台に立つと感じ入るものがあります。

あとは下山しながら離れた曲輪を見学していきます。

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