諏訪原城 その1

続100名城登城31城目は、静岡県の諏訪原城すわはらじょう(146番)です。

諏訪原城ビジターセンター解説パネルより

諏訪原城について

歴史

諏訪原城は、天正元年(1573年)、病死した武田信玄から家督を継いだばかりの武田勝頼が、馬場春信に命じて築いたと言われています。かつて父・信玄が失敗した高天神城の攻略を睨んでの築城だったと思われます。高天神城と諏訪原城は直線距離で15kmほどしかありません。

天正2年(1574年)、勝頼は高天神城の攻略に成功し、遠江(現在の静岡県西部)攻略の足がかりを確立したかに思えましたが、翌天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫し、一気に劣勢に立たされてしまいます。期を逃さず三河・遠江地方でも反転攻勢に出た徳川軍によって、諏訪原城は天正3年8月に攻略、武田方の将兵は開城して小山城に退去しました。

徳川方の城となった諏訪原城は名を『牧野城』と改められて大改修が行われ、徳川譜代の家臣である松平康親まつだいら やすちか松平家忠まつだいら いえただらが常磐を務めていましたが、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡したことによりこの地に城のある意義がうすれ、天正18年(1590年)頃には廃城になったと考えられています。

ところで、徳川がこの城を得た直後の天正4年(1576年)3月、今川義元の子・今川氏真いまがわ うじざね城主に任じられていました。氏真はすでに戦国大名としての力をすっかり失っていましたが、今川旧領である駿河(現在の静岡県東部)攻略を正当化するための神輿として担ぎ上げられたのかもしれません。ただ約1年後の天正5年(1577年)3月、実際に駿河地方の攻略を始める前に、氏真は城主を解任されて浜松に移っています(異説あり)。その後の氏真の人生について詳しいことは判りませんが、高家として抜擢され、慶長19年(1615年…徳川秀忠が将軍だった時代)、当時としてはかなり長寿の77歳まで生き延びたと言うことですから、戦国乱世の本当の勝者の1人といえるかもしれません。

構造

諏訪原城の構造は独特です。山城に分類されますが独立した山の上ではなく舌状台地の先端部に築城されており、本曲輪・二の曲輪・大手曲輪・惣曲輪はほぼ同じ標高で広い面積を確保しています。

舌状台地なので三方は斜面に囲まれていますが、とくに東側(現在金谷駅のある側)は比高100m以上の急斜面であり、城の備えは東側以外の方向からの攻撃を想定したものになっています。急傾斜を背後にした台地の東端に本曲輪を置き、その西側から南側に回り込むように二曲輪、さらにその西側に惣曲輪や大手曲輪が配置されています。

特徴的なのは大小5つもある半月型の馬出で、なかでも西に向かう二の曲輪中馬出は非常に規模が大きく、城見学の最大の見所だと思います。

見学ガイド

大規模な馬出をはじめ堀・土塁などがよく復元され、非常に見学しやすい城です。山城でありながら城内の見学順路ほぼ平坦であり、体力的にも楽です。

最寄り駅であるJR金谷駅からは比高120mの上りですが、一日3~5本のコミュニティバスが諏訪原城ビジターセンター前に停車します。

同じ続100名城で歴史的な因縁のある高天神城とはJR東海道線で駅2つ分、最寄り駅同士の移動は15分程度の距離なので、2つの城を一日でハシゴ見学することは充分可能です(ただしバスの時刻はよく確認しておくことをお勧めします)。

いざ登城

午前中に見学した高天神城から掛川駅まで戻り、すぐ東海道線で金谷駅に移動(昼食抜きだけど…)。

R東海道線の金谷駅前。金谷駅は初めてではないのですが、前回はすぐ大井川鉄道に乗り換えてしまったので駅前がこうなっているとは判りませんでした。この写真は道路側のロータリー入口から撮影しています。JR金谷駅は中央奥、大井川鉄道金谷駅は左奥(オブジェの陰になってる)です。

諏訪原城方面のコミュニティバスは、右手にある小さな半月形のバス停から発車します。バスの本数は少ないのですが、駅から諏訪原城までは高さ120mほど登るので、往路だけでも時間を合わせて乗ることをオススメします。バスはワンボックスカーで運行され、一乗車200円です。

ビジターセンター

『諏訪原城跡』バス停を降りてすぐ、諏訪原城ビジターセンターがあります。城跡へはこの建物左手から入れます。ビジターセンター右手には諏訪原城跡唯一のトイレがあります(ビジターセンターの建物内ではありません)。

続100名城スタンプもこちら。

ビジターセンター内、グッズコーナー。価格は全品300円均一で、右手にあるガチャガチャに100円玉を投入してカプセルに入った『引換券』をとり、窓口で好きなグッズと交換する方式です。窓口で現金を扱わないですむようにする工夫らしいです。

展示室。歴史や城の構造などについての解説があります。

展示室中央、二の曲輪中馬出のジオラマ。このあとすぐ実物を観られますが、あらかじめこのジオラマをよく観ておくと現地でかつての姿が想像しやすいです。

諏訪原城平面図がありました。復元整備のポイントも書かれています。

諏訪原城は山城に分類されることが多いのですが(実際金谷駅と本曲輪では比高120mくらいある)、主な見学ポイントである大手曲輪~惣曲輪~二の曲輪~本曲輪はほぼ同じ高さで、見学順路もカンカン井戸付近を除けばほとんど上り下りがありません。

大手曲輪ゾーン

それでは、ビジターセンターを出て大手曲輪ゾーンから見学開始です。大まかにいって、前出の平面図を時計回りに一周するような見学路が設定されています。

ビジターセンターの裏手すぐ、大手南外堀。いまはかすかに地面の凹凸があるだけなんですが、かつては深さ3.3mのV字型の堀(薬研堀)だったそうです。

二の曲輪の外堀に沿って北に進んでいきます。左手は大手曲輪、堀の右側は二の曲輪です。

手前は大手曲輪、奥には大手曲輪北の土塁があります。

大手曲輪と惣曲輪の境目で西を向いて撮影。大手曲輪北の土塁と堀が見えます。このあたりも樹木を伐採して堀が観やすいように整備されているようです。

城の北西部、惣曲輪です。現在、惣曲輪の東半分は林のようになっています。西半分は農業用地として利用されているようです。茶畑っぽかったな。

二の曲輪ゾーン

巨大な馬出

二の曲輪中馬出が見えてきました。110m×20m、ビジターセンターのジオラマから受ける印象より大きいです。

二の曲輪中馬出を囲む巨大な堀。深さも相当なもので、さすがに柵が設置されています。

ビジターセンターのジオラマの写真とだいたい同じ視点になるようにVR写真を撮ってみました。他の城跡ではなかなかみられない巨大半月馬出の形状がよく判ります。深い堀まではっきり観られるのは珍しいです。

二の曲輪北馬出。こちらは門と土塀が復元されています。城跡として公開されている範囲の最北端です。

北馬出から中馬出に渡る通路上から。先ほどの写真とは反対の方向から二の丸中馬出を観ています。

二の曲輪

中馬出から土橋を渡って二の曲輪へ。惣曲輪側から二の曲輪に入るには、馬出に1箇所しかないこの細い土橋を渡る経路しかありません。

二の曲輪は南北に細長い、長方形が折れ曲がったような形状をしていいて、中ほどが土塁で区切られています。こちらは北側です。

これが南北の仕切となっている土塁です。傾斜はゆるいですが高さは案外高く、南側がまったく見えません。

※現地の図面では『二の曲輪』の中央が仕切土塁で区切られている表記でしたが、仕切土塁の北側を『二の曲輪』、南側を『三の曲輪』とすることもあるようです。

長くなってきたので記事を分けます。

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