松山城 その2

本丸広場

ようやく本丸広場までたどり着きました!
松山城の本丸は南北に細長い曲輪です。東雲口または黒門口から来ると南端の太鼓門から入ることになりますが、太鼓門から天守のある本壇(この写真の奥)のチケット売り場まで150m、待合番所から本壇北側までだと300mもあります。

本丸南部、太鼓門周辺の建物の配置はこのようになっています。

巽櫓

本丸南東隅の巽櫓。先ほど太鼓門の外からは木でよく見えなかった櫓です。
復元建築ですが、周りに管理関係者のものと思われる車が駐めてあります。って、車でここまで登ってこられるんだ!(もちろん一般車は通行禁止でしょうが)

中は見学できません。

太鼓櫓

太鼓櫓。本丸西南隅に位置する二重櫓です。昭和20年(1945年)に戦災で焼失、昭和48年(1973年)に復元されました。中は見学できません。

馬具櫓

馬具櫓。本丸西側にある二重櫓です。昭和20年(1945年)に戦災で焼失、昭和33年(1958年)に復元されました。松山城の多くの復元櫓は木造で内部構造まで含めた復元ですが、この馬具櫓だけは鉄筋コンクリート造による外観のみの復元です。復元された当時は防災のためのポンプ制御室で、現在は管理事務所となっています。

本丸南部には井戸があります。深さ44mもあるそうです。
周囲に柵があって中を覗き込むことはできませんが。

本丸北部、本丸広場よりさらに一段高く、連立天守を含む多数の櫓が密集している領域を本壇と称しています。この本壇が有料エリアです。

本壇

本壇は本丸広場よりさらに8m高くなっています。周囲は石垣で囲まれ、上るルートは一ノ門~二ノ門と順に進む1本しかありません。

登り始める前に1枚。櫓が3つ見えますが、左が小天守、右が一ノ門南櫓、中央奥が天守です。

本壇の建物配置図
(三の門近くの案内板より)

現地にあった本壇の建物配置図です。本壇は櫓や門が多く通路が複雑なので、これを別ウィンドウで開いて見比べながらこの先を読むと判りやすいと思います。紫色になっている部分が重要文化財指定された建造物(≒現存建築)です。赤い矢印に沿って見学しています。

一ノ門

上り始めて早速、またしても180度の折り返しと門です。

初期方向右手に見えるのが一ノ門、一ノ門に向かって右手には一ノ門南櫓、左手には三ノ門南櫓、振り返ると小天守、初期方向正面を見上げると三ノ門南櫓と小天守の間を結ぶ筋鉄門東塀、その向こうに天守、初期方向後方には紫竹門東塀が見えます。小天守以外は現存建築で、国の重要文化財に指定されています。

※(追記)復元建築である小天守も2019年に登録有形文化財に指定されました

紫竹門東塀。紫竹門はこの向こう側の左手にあります。

一ノ門。脇戸付きの高麗門形式です。周囲を石垣・櫓・塀に囲まれ、寄手は周囲からの射撃を受けるようになっています。築城当初のものは天明4年(1784年)落雷による火災で焼失、天明6年(1786年)に再建されました。現在も天明6年の建築が現存しており、国の重要文化財に指定されています。

一ノ門を入ると、そこはまた櫓や塀に囲まれた枡形になっています。
初期方向左手にいま入って来た一ノ門、正面を見上げると三ノ門南櫓、右手に二ノ門、そのさらに右に二ノ門南櫓、初期方向後方には一ノ門東塀があります。

先に説明した物に加えて、二ノ門と三ノ門南櫓は現存建築で国の重要文化財です。つまりこの写真はどっちを向いても重要文化財に囲まれています。

二ノ門

二ノ門は薬医門形式です。両側を二ノ門南櫓と三ノ門南櫓に挟まれ、寄手は周囲からの射撃にさらされるようになっています。一ノ門と同様、築城当初のものは天明4年(1784年)落雷による火災で焼失。安政元年(1854年)に再建されました。現在も安政元年の建築が現存しており、国の重要文化財に指定されています。

二ノ門をくぐると少し広い場所に出ます。障害物なく天守を見上げることができますが、こちら側には入口がありません。次は天守の左手にある三ノ門へ向かいます。

三ノ門

三ノ門および三ノ門東塀。三ノ門は高麗形式の門です。三ノ門手前の領域は一ノ門と二ノ門の間に較べれば広いとはいえ、三ノ門の開口部が小さいため大人数が一度に通ることができず、停滞しているところに天守や三ノ門南櫓からの射撃を受けるようになっています。

三ノ門も一ノ門・二ノ門と同様、築城当初のものは天明4年(1784年)に落雷による火災で焼失。安政元年(1854年)に再建されました。現在も安政元年の建築が現存しており、国の重要文化財に指定されています。

三ノ門をくぐると、次の筋金門までは通路状の細長い領域になっています。
初期方向正面が筋金門、右手が天守、左手が筋金門東塀、左後方に三ノ門南櫓、右後方に三ノ門があります。

この中でも三ノ門南櫓は、南側が一ノ門、東側が二ノ門を見下ろす位置でもある重要拠点です。これも築城当初のものは天明4年(1784年)に落雷による火災で焼失。安政元年(1854年)に再建されました。現在も安政元年の建築が現存しており、国の重要文化財に指定されています。

筋金門

筋金門すじがねもん。脇戸附の櫓門です。櫓は天守と小天守を結ぶ通路となっています。門柱に鉄板が貼りつけてあることから『筋金』の名がつけられました。

これも築城当初のものは天明4年(1784年)に落雷による火災で焼失。安政元年(1854年)に再建されました。現在も安政元年の建築が現存しており、国の重要文化財に指定されています。

ここを入ると天守広場、連立天守で囲まれた領域に入ります。

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