設楽原

古宮城の次は、JR飯田線でさらに進んで設楽原の古戦場に行ってみることにしました。

長篠・設楽原戦場の最寄り駅、JR飯田線の三河東郷駅に到着しました。JR飯田線の中でも小さな駅です。ホーム細い!

三河東郷駅の待合室はこんな感じ。券売機も改札機もない無人駅です。

駅から設楽原歴史資料館まで

駅から歩いて数分、首洗い池です。有名な長篠・設楽原の戦いの後、首や武具を洗ったと伝えられています。現在はきれいに整備されていて、名前から想像するようなおどろおどろしさはまったくありません。

さらに歩いて信玄塚。長篠・設楽原の戦いの戦死者を弔ったもので、大塚と小塚があります。この写真は小塚で、戦死者の少なかった織田・徳川方のためのものだそうです。 
そーいやなんで『信玄』なんでしょう?武田信玄は長篠・設楽原の戦いのずっと前に病没してますよね?

こちらが信玄塚の大塚です。戦死者の多かった武田方のためのものだそうです。毎年夏には、二つの塚の周りを松明行列が練り歩く『ひおんどり』という行事があるそうです。もとは塚付近から発生した蜂を戦没者の怨念ととらえ、供養するために始まったといわれているそうです。

この写真の奥、大塚の右手を回り込むように歩いて行くと設楽原歴史資料館へ行けます。GoogleMapで道順を検索すると大塚前からワープするようなコースが表示されていて訳が分からなかったので(笑)、近くを通りかかった地元の人に訊きました…。

大塚の近くには石造りの閻魔大王像がありました。宝暦7年(1757年)建立ということなので長篠・設楽原の戦いより200年近く後の江戸時代の中頃に、当時の領主である設楽貞根が命じ、般若寺の住職だった空道和尚が制作したと伝えられています。新城市の指定文化財です。

設楽原歴史資料館

設楽原歴史資料館に到着。

右手の人物像は岩瀬忠震ただなり、幕末に活躍し、日米修好通商条約締結などに功績のあった人です。江戸時代に設楽原を領地としていた設楽氏の一族の出身で、岩瀬は養子となった家の名です。

早速資料館の中へ。エントランスには騎乗した徳川家康と並んで写真が撮れるトリックアートがありました。

とにかく火縄銃

さすが、火縄銃に関する展示が充実しています。右手のケース内には大小様々な火縄銃が20丁以上!これほど多数の火縄銃がまとめて展示されている施設はなかなかありません。

『火縄銃』と言われて思い浮かべるような、典型的なタイプの火縄銃がずらりとならんでいます。それぞれ微妙に大きさや形が違っていますが、だいたい長さ1300mm程度、口径14mm程度です。

指火式大筒。口径45mmもある大型銃です。現代のグレネードくらいの口径ですが、手持ちではなく台座に固定して使用したのでしょうか?

こちらは馬上筒。左のものは全長527mm・口径12mm、右のものは全長342mm・口径8mmです。現代のハンドガンのようなサイズですが、名前からすると騎乗したまま使うことが想定された銃なのでしょう。

このコーナー以外にも、館内のあちこちに鉄砲関係の展示があります。

展示室の入口にあった、長さ3m以上・口径40mmもある大型火縄銃。戦国時代のものではなく、もっと後の時代にカモ狩りにつかわれていたものだそうです。

この資料館の目玉展示の一つ、『信玄砲』と名付けられた火縄銃。

実は長篠の戦いで使われた銃(というか戦国時代に作られた銃)は数丁しか現存しておらず、展示されている銃は戦国時代よりも後、江戸時代以降のものがほとんどなのだそうです。

そんな中で、この『信玄砲』は貴重な『戦国時代に使われた』という逸話が残されてている銃です。

長篠・設楽原の戦いの2年前、武田信玄が野田城を攻めたとき、火縄銃の名手・鳥居三左衛門が信玄を狙撃して命中、重傷を負わせるという事件がありました。その時に使われたのがこの銃だというのです。

その後野田城は武田軍の攻撃によって落城しますが、信玄はこの時の怪我が元になって死去したのだ…とも言われています(一般には『病死』という説ですが)。

というわけで。『信玄砲』という呼び名から、武田信玄が作らせた・武田信玄の軍が使用した銃かと思ったら、『武田信玄を撃った』銃でした…。

水筒に似た形ですが、これらは火縄銃に使う火薬入れです。

こちらは火縄など、火縄銃関連のさまざまな道具や消耗品類ですね。

長篠・設楽原の戦い

こちらは長篠・設楽原の戦いに関するコーナー。

長篠・設楽原の戦いの全体ジオラマ。右奥には何年か前に見学した長篠城があり、
いまいる設楽原歴史資料館は『信玄台地』と書かれたプレートのあたり、
三河東郷駅は左寄り手前にある騎馬のあたりだと思います。

設楽原歴史資料館と長篠城の間は直線距離で3kmほど、電車やバスで10分ほどの距離です。ただ電車もバスも1時間に1本しかないので、続けて見学する場合はタイミングによっては歩いた方が早いかも…。

長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍が築いたといわれている馬防柵についての解説。よくみると織田勢が築いた柵と徳川勢が築いた柵では形が違います。

水野家足軽のものと思われる甲冑と、織田信長の趣味が反映された唐人笠馬標。甲冑は胸に大きく『永楽通宝』と描かれていますが、これは織田方の旗印としても使われていたそうです。…でもよく考えると、これって現在なら軍服に『100円玉』とプリントしてあるようなものですね??

壁に展示されている長篠の戦いの大型の絵画。なかなか立派な出来なのですが、地元小学校の卒業制作らしいです。

その他の展示

火縄銃の物量攻撃のせいで印象が薄いのですが、こちらには刀剣類が多数展示されています。

地元の祭りである『火おんどり』についての展示。長篠・設楽原の戦いの後、戦没者を埋葬した信玄塚付近に蜂が大量発生したのを『戦没者の亡霊によるもの』と考え、大きな松明を灯して弔った…というのが火おんどりの始まりで、現在も毎年8/15に信玄塚前で松明を灯す行事が続いているそうです。

建物前に像があった岩瀬忠震の功績を紹介するコーナーもありました。

屋上

屋上にもあがれます。床にいろいろ描かれているのは、設楽原の戦場をイメージしているのだそうです。

資料館屋上より設楽原古戦場方面を見ています。たぶん織田信長の本陣があった方角だと思うのですが…背後の山が茶臼山かな…。

前の写真より北寄りを見ると、復元された馬防柵が見えます(あとで近くまで行ってみます)。資料館がある丘が武田方の陣地でした。

以上で設楽原歴史資料館の見学は終了。長篠・設楽原の戦いに興味があったらぜひ見学した方がいい、見応えのある資料館でした。

勝頼指揮の地

設楽原歴史資料館の少し北(駅から遠い側)に『武田勝頼指揮の地』があるというので行ってみました。

資料館のすぐ北、東郷中こども園の裏手の駐車場の奥に、このような土盛りがあり、上に石碑が建っているので、これかな…と思ったら、こちらは陸軍大将土屋光春の書による招魂碑でした。

『武田勝頼公指揮の地』と書かれた碑は、招魂碑の陰に隠れるようにありました。

馬防柵

最後に、先ほど資料館屋上からも見えた復元馬防柵を観に行きました。

戦場を東西にわける連吾川。この写真の右側(東側)に武田軍、左側(西側)に織田・徳川連合軍が陣を構えていました。東西を山に挟まれて、平地は幅200m程度と意外に狭いです。

川自体については、正直『こんな小さな川だったの!?』と驚きました。織田・徳川軍の陣の外堀のような役割だったということで、渡るのに苦労するようなある程度大きな川を想像していたのですが。

連吾川にかかる柳田橋の欄干には、このように織田・徳川軍の鉄砲隊と武田軍の騎馬隊がレリーフ状に描かれています。

馬防柵までやってきました。思ったより長い範囲に復元されています。また高さも人の背よりはるかに高いです。

馬防柵には味方の足軽が出撃できるようにところどころに出入り口が設けられています。その構造が織田軍がつくったものと徳川軍がつくったもので異なります。
こちらは織田軍のもの。馬防柵を『く』の字型に折り曲げています。

こちらは徳川軍のものです。直線状で短めの馬防柵を前後に互い違いに配置することで開口部を作っています。

まとめとデータ

設楽原古戦場の見学はこれでお終いです。長篠・設楽原の戦いは学校の歴史の教科書にも掲載されている非常に有名な戦いですが、実際に現地の地形を見ると具体的なイメージが湧いてきますね。写真は載せていませんが有力武将の墓(討ち死にした場所を表す碑)があちこちにあり、かつてここで大規模な戦闘があったのだということが実感できます。

設楽原歴史資料館

Webサイト新城市公式サイト内の紹介
資料館のFacebookページ
地図GoogleMap
アクセスJR飯田線 三河東郷駅より徒歩15分
※飯田線は上下とも1時間に1本程度なので要時刻表確認
開館時間9:00~17:00(16:30最終入場)
休館日毎週火曜(祝日の場合は翌平日に振替、また夏休み期間中は開館)
入館料大人330円、小中学生100円
※長篠城址歴史保存館との共通券440円あり、ただし飯田線の駅3つ分の距離があります

復元馬防柵

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開館時間見学随時
※ただし照明設備はないので実質的に夜間は見学不可能

勝頼公指揮の地

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開館時間見学随時
※ただし照明設備はないので実質的に夜間は見学不可能

信玄塚

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開館時間見学随時
※周囲は民家です。夜間の訪問・違法駐車・騒ぐ・ゴミを捨てるなどの迷惑行為は絶対にやめましょう。

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