開陽丸見学の後、すぐ近くの鴎島へ渡ってきました。
鴎島は江差沖にある、南北1km弱、東西は一番細いところで70~太いところで300mほどの細長い島です。かつては独立した島だったようですが、現在はケーソン(海中に設置する鉄筋コンクリートの構造物)の設置によって堆積した砂州で本土と繋がっています。舗装道路もあるので、徒歩・車で簡単に上陸できます。開陽丸のすぐ横の道路を200mほど進むだけです。
鴎島に上陸してすぐの場所にあった案内図です。島内には観光スポットが点在しています。釣りやキャンプなども楽しめるようです。
島東側
島の中心部は20~30mの崖で囲まれています。まずは開陽丸側から渡ってすぐ、崖を登らずに見られるスポット(島東岸)を回っていきます。
鴎島に渡る道の途中より、左手に見える 馬岩 。画面中央下部、一部が洞穴のように窪んだ中に、天を仰いで嘶く白馬のようにみえる岩があります。
源頼朝の軍勢に追われて奥州を脱出した源義経は一時江差に隠れ住んでいたが、再び逃れるときには愛馬を残して行かざるをえなかった。しかし愛馬は鴎島で義経を待ち続け、とうとうそのまま石になってしまった…
という伝説があるそうです。
瓶子岩
上陸してすぐ、鳥居と瓶子岩。
瓶子岩は上の写真の左奥に見える海上に飛び出た岩です。高さは10mほどあります。この瓶子岩には、
500年もの昔、折居というひとりの老婆がいた。あるとき老婆は鴎島で翁(神)から1つの瓶を渡された。老婆が瓶を瓶に投げると(または、瓶の中の水を海に注ぐと)鴎島のまわりにニシンが集まり、江差の人々はニシン漁で豊かに暮らすことができるようになった…
という伝説があるそうです。
瓶子岩は海に投げられた瓶が岩となって海上に現れたものだといわれているそうです。その伝説の通り、下が細くくびれた奇妙な形をしています。
この後、遊歩道を歩いて行くと、瓶子岩の周りをほぼ半周することができます。角度によっていろいろな形に見えてなかなか面白いです。2枚目の写真は遊歩道上、いちばん瓶子岩に近づいたあたりで撮影したものですが、瓶というより人の横顔のようにも見えてきます。
鳥居は、鴎島の上部(左手の崖の上)にある厳島神社の建立400年を記念して、平成27年(2015年)に建てられました。…って、歴史のあるものかと思ったら10年も経ってないんだ!
この鳥居は厳島神社と瓶子岩の方を望むように建てられています。といっても厳島神社はここからは見えませんが…。
青坂満師の像
鳥居の近くには青坂満師之像があります。青坂満氏は江差町出身。第6回江差追分全国大会優勝・民謡名人位を送られて『江差追分の師匠』と呼ばれた人物です。その功績をたたえて令和3年(2021年)に建てられました。
村上の井戸
鳥居の近くに民家があります(鴎島は無人島ではなく、二世帯が住んでいます)。その裏手には古い井戸があります。これは鴎島に寄港した北前船(江戸時代から明治時代にかけて日本海側の海運を担った船)に水を補給するため、明治9年に江差の問屋だった村上三郎右エ門氏が掘り当てたもので、人々からは村上の井戸と呼ばれているそうです。
民家の裏にあるので近くに行くのは難しいですが、島中央に昇っていく階段の途中から見ることができます。
遊歩道
島の北端近くまで遊歩道・かもめの散歩道が続いています。崖崩れなどによる落下物を避けるため、崖から少し離して海上に設置されています。おかげで『海の上を歩く』というちょっと変わった体験ができます。
北前船の係船跡
遊歩道をさらに進んでいくと、岩にあいた穴に丸太を立てたようなものがあります。ここは北前船が停泊した場所で、穴は係船柱(船を係留するためのロープをつなぐ柱)を立てるためのものです。いまある丸太は当時の係船柱が残っているではなく、判りやすいように最近になって立てられたものだと思いますが…。鴎島東岸は、鴎島自体が巨大な天然の防波堤となって日本海の荒波から船を守るのに最適だったのでしょう。
島の上部(北部)
係船跡からさらに進むと、島の北端にある階段で島の上部に上がることができます。
階段の下からてっぺんまでは15mほど高低差があるのですが、この写真で判るとおりきれいな階段で手すりもしっかりしたものが造られているので、安全に上ることができます。
テカエシ台場跡
一つ前の階段の途中、右手に広く平坦な場所があります。これは江戸時代後期に外国船に備えて設置された砲台跡で、テカエシ台場跡と呼ばれています。大砲数基や弾薬が置けたであろう広さはありますが、具体的にどこに大砲が設置されたか、などが判るような遺構は見当たりませんでした。
テカエシ台場跡からは島の北西側に広がる千畳敷を見下ろすことができます。
階段を一番上まで上ってしまえば、そこからは遊歩道が島の南端まで続いていますので、迷わず全体を散策することができます。
厳島神社
厳島神社は元和元年(1615年)に創建されたと伝えられる神社で、航海安全の神として北前船関係者に信仰されてきました。創建当初は弁財天社と呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に厳島神社と改名されたそうです(昔は島自体も弁天島と呼ばれていました)。手前の石鳥居は加州(現在の石川県)の船頭達が寄進したものだそうです。
鳥居の手前にある手水鉢です。右手の円形部分は方位が描かれています。
江差追分功労者の碑
厳島神社の南側に隣接する場所には、江差追分に関係する碑・像が並んでいます。
初代浜田喜一師之像。浜田喜一氏は大正6年(1917年)生まれ、江差町出身の民謡歌手で、全国民用連盟本部理事長にまでなった人物です。江差追分の普及に貢献しました。結核で片肺を切除して引退を決意した際に弟に芸名を譲ったため、『初代』とついています。
小路豊太郎翁之碑。小路豊太郎氏は慶応3年(1867年)生まれ、江差町出身です。虚無僧から尺八を学び、従来は三味線だけだった江差追分の伴奏に尺八を加えることで普及に貢献しました。
これも上の2つと同じ区画にあるのですが、『皇太子殿下御婚禮記念林』と刻まれています。明治33年(1900年)の建立なので、この『皇太子殿下』とは後の大正天皇のことのようです。
島の上部(中央広場)
島の上部中央は広場になっています。この広場はキャンプ場としても使えるようです。
鴎島灯台
鴎島の中央付近は広場になっていて、その西側(外海側)には鴎島灯台があります。江戸時代に灯台の原形である灯明台がこの場所に建てられ、明治22年(1889年)には木造の灯台に建てかえられ、昭和26年(1951年)に現在の鉄筋コンクリートの灯台となりました。
現在の鴎島灯台は外階段で誰でも上に登れるようになっており、展望台として利用することができます。
まず東側。灯台の建っている広場と、その向こうには江刺市街地が見えます。中央の奥に見える二つ並んだ山は、左が元山(522m)、右が笹山(611m)です。
西側を見ると日本海が広がっています。天気がよければこの写真の左端あたりに奥尻島がみえるそうです。
北側を見ると、広場北端にあるステージが見えます。下を見ると灯台を囲む土塁が見えます。
南側をみると、これから進んでいく鴎島南側の地形がみえます。平坦だった北端からここまでの道と違って、途中に高低差のやや大きな場所があることが判ります。
さらに画面奥には、午前中に上っていた夷王山も見えます(手前に見えるU字型のベンチから真っ直ぐ上にいったあたりです)。
ステージ
広場の北側にはステージ施設があります。毎年7月に開催される江差かもめ島祭りなどに使用されているそうです。
鐘…?
灯台の近くにはこんな鐘があるのですが…これはなんでしょう?全国各地の観光地にある『幸せの鐘』の類?
江差追分節記念碑
江差追分節記念碑。江差追分が全国的に知られるようになったことを記念して昭和7年(1932年)に建てられました。
裏側には歌詞『松前江差の鴎の島は地から生えたか浮島か』が刻まれています。
島の上部(南部)
最後に、島の南部へ。このあたりでは島の東西幅がもっとも狭くなっています。高くなっている部分は幅10mほど、浜まで入れても70mほどです。また標高も低く、中央広場が標高30mほどあるのに対してこの付近は標高10m前後しかありません。そしてここからまた10m上ります。
弁慶の足跡
崖の下の平らな岩盤に2つの大きな穴が開いています。これは奥州平泉から江差に逃れてきた源義経の部下、弁慶の足跡だといわれています。手前の大きい方は長軸8m、奥の小さい方は長軸5mの楕円形です。人間の身長は足のサイズの6~7倍くらいになることが多いらしいので、この足のサイズだと弁慶は身長30~56m、『進撃の巨人』の超大型巨人やコンバトラーVに匹敵するサイズです(笑
拡大するとこんな感じです。海面ギリギリの高さで、穴には水が溜まっているように見えます。
弁慶の足跡は潮が満ちると見えなくなってしまうそうです。
キネツカ台場跡
そして南端にあるキネツカ台場跡。島の北部にあるテカエシ台場とともに、江戸時代の後期に設置されました。明治2年(1869年)4月、旧幕府軍は江差奪還のため迫ってきた新政府軍の艦隊に対してここから砲撃を行いました。…が、効果はなく、新政府軍艦隊の砲撃を受けた旧幕府軍は江差から撤退しました。
ちなみに、この時の新政府軍艦隊の中核艦であった軍艦・春日には、後に連合艦隊司令長官となる東郷平八郎が砲術士官として乗り組んでいたと思われます(同年1月に春日に乗艦したのは確か)。
これで鴎島の端から端まで見回りました。
おまけ
鴎島南部、遊歩道からみた開陽丸です。時刻は17時、そろそろ日も傾き、開陽丸を照らす光もオレンジ色になっています。
さて、帰りがまた大変です。バス停は鴎島から歩いて10分弱の『姥神町フェリー前』が最寄りですが、次のバスは18:58発、そしてこれが函館まで行く最終便です。もし逃したら…鴎島で野宿する…?一応キャンプ場だし…。
発車時刻直前、近くのコンビニで(オヤツを買うついでに)トイレを借りて絞り出してから乗車。まぁ帰りは『危ない』と思ったら新函館北斗で下りてしまうという手もあるんですが。電車賃が余分にかかりますが、バスに乗っている時間を約1時間短縮できます。
ちなみに1本前のバスは15:24発、鴎島に渡ろうとしていた頃にはもう出発していました。函館方面のバスは1日5本と少ないので、時刻表要確認です。
まとめとデータ
日が落ちる前に、と1時間ほどの駆け足観光でしたが、各所の眺めの良さは堪能できました。
関東に住んでいる人間にとっては、神奈川県の有名観光スポットである江の島と共通する部分があるかな、と思いました。
Webサイト | 江差町観光情報ポータルサイト内での紹介ページ |
地図 | GoogleMap |
アクセス | ・函館駅または新函館北斗駅より函館バス610系に乗車、『姥神町フェリー前』下車徒歩10分 (函館駅からバス乗車2時間30分、運賃片道1,900円) ・木古内駅より函館バス631系に乗車、『姥神町フェリー前』下車徒歩10分 (木古内駅からバス乗車1時間40分、運賃片道1,250円) |
開場時間、休館日 入場料 | 見学自由、入場無料 ※キャンプ場があるので島への出入りは24時間可能ですが、 ※街灯などがないので夜間の見学は実質不可能です |
備考 | トイレは島に渡ってすぐの場所と中央広場にあり 飲料自販機はないが広場に水道あり |
コメント