熊本城 1

熊本城について

100名城登城98城目は熊本城です。

歴史

熊本には、現在の熊本城以前に、室町時代の文明年間(1469~1487年)に出田秀信いでだ ひでのぶが葉城した千葉城と、出田氏の衰退後の大永・享禄年間(1521~1531年)に鹿子木親員かのこぎ ちかがずが築いた隅本くまもとがありました。出田氏と鹿子木氏はともに肥後国主後菊池氏と関わりがあり、千葉城・隅本城の築城には菊池氏の意向が働いていました。

豊臣秀吉の九州平定の後、新たに肥後領主となった佐々成政が熊本城主となりますが、天正16年(1588年)に肥後国人一揆の責任を問われて成政が切腹すると、かわって加藤清正が肥後北半国の領主となって隅本城に入城しました。

加藤清正は千葉城や隅本城のあった茶臼山一帯に築城を開始。関ヶ原の戦いの後に肥後一国52万石を与えられた後、慶長11年(1606年)に城は完成。名を『隅本城』から『本城』と改めました。これが現在の熊本城です。

清正の子・加藤忠広かとう ただひろが改易となって酒井忠勝お預けの身となると、かわって豊前国小倉城主だった細川忠利ほそかわ ただとしが肥前領主となって熊本城に入城しました。忠利は加藤氏時代末期の政治の混乱により整備が行き届いていなかった熊本城に大規模修繕を施し、未完成であった二の丸・三の丸を開発しました。その後も江戸時代を通じて熊本城は細川氏の居城で有り、城郭も拡張を続けました。

明治時代、熊本城は西南戦争の舞台となりました。新政府軍の拠点だった熊本城に対して西郷軍は総攻撃を計画します。その決行直前に原因不明の出火で大小天守や本丸御殿など多くの建物を消失しましたが、その後の西郷軍総攻撃では数に劣る新政府軍が西郷軍の撃退に成功。熊本城の護りの堅さに、西郷隆盛は『官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ』と嘆いたと伝えられています。

その後、太平洋戦争時の空襲では奇跡的に焼失を免れ、戦後にアメリカ軍によって一部が取り壊されましたが、昭和35年(1960年)より本丸一帯の整備が始まり、天守の外観復元をはじめ多数の建物が復元・整備されました。

平成19年(2007年)、築城400年を記念して本丸御殿、未申櫓、南大手門などの建物が復元されました。

平成28年(2016年)、最大震度7の熊本地震により石垣の崩落や建物の倒壊など大きな被害を受け、現在も復旧工事が行われています。修復完了は2037年といわれています。

構造

茶臼山一帯に旧千葉城や旧隅本城を取り込んで築かれた平山城です。麓を流れる川の流れを改修して堀に見立て、山上を本丸とし、一段低いゆるやかな斜面に二の丸・三の丸を配置した梯郭式の城郭になっています。さらに旧千葉城は出丸となっていました。

ちょっと変わっているのは本丸です。本丸はもともと通路によって南北2つに分断されていましたが、それを跨ぐ形で本丸御殿が築かれ、天守に至るには本丸御殿の地下を通路を通らなければならないという、他の城では見られない構造になっています。

見学ガイド

2022年3月現在、まだ熊本地震による被害が復旧していない箇所が多くあり、見学可能なのは大小天守などごく一部になっています。本記事冒頭の地図で黒っぽくなっている部分が立ち入り制限エリアで、赤い線が見学順路です。つまり面積で言えば大部分には立ち入ることが出来ず、南北どちらかの入口から入り反対側に通り抜ける一本道のみ通行可能です。ただし南側通路は高架式で、連続枡形や東竹之丸は通路から見下ろすことができます。また外観復元された大小天守は内部に入ることが出来ます(中身は近代建築の博物館です)。

市街地にある平山城なので見学はしやすいです。熊本市中心街の桜町バスターミナルや市電の市役所電停・花畑町電停などから徒歩10分弱で発券所にたどり着きます。桜町バスターミナルは新幹線停車のJR熊本駅や熊本空港からバスや市電で一本なので他地方からのアクセスも良好です。

いざ登城

わくわく座から通路を通って熊本城内へ。

まず正面に見えてくるのは未申ひつじさる、二層三階の櫓です。明治時代に解体されましたが平成15年(2003年)に復元されました。ここはまだ入場ゲート前、未申櫓のある奉行丸の石垣に沿って東へ進みます。

奉行丸の南東の石垣は熊本地震で大きく崩れています。これ以上の崩落を防ぐためにモルタルで固められ、さらにネットが被せられています。

この先でチケットを提示して南ルート(高架通路)へ入ります。高架通路の上り口にはエレベータも設置されており、車椅子での利用も可能なようです。

高架通路

高架通路から見える数寄屋丸。上にある二階御広間は平成元年(1989年)に復元されたものです。熊本地震で石垣が崩れ、二階御広間も建物が歪んで壁に亀裂が入っています。

見学通路南ルートはこのVR写真のように高架通路になっています。この位置からは、ちょうど正面に大天守、左手に数寄屋丸の二階御広間、右手に本丸御殿、背後を見下ろすと連続枡形が見えます。

連続枡形を見下ろしています。

枡形は、通常1~3の曲がり角で構成されますが、熊本城では6回も曲がります。ここも石垣が大きく崩れモルタルで養生されています。実際に見学者がここを歩けるようになるのはいつでしょうか…。

傾きの異なる二重の石垣は二樣の石垣と呼ばれています。右手前の傾斜がやや緩い方が古い石垣で、そこに左奥の傾斜の急な石垣が継ぎ足されています。古い方は加藤清正の時代に築かれました。新しい方は細川忠利の時代に築かれたとされていましたが、最近の研究では清正の息子・忠広の時代に築かれたと考えられているそうです。

高架通路の終わり近くからは東竹之丸を見下ろせます。

東竹之丸は本丸東側をまもる南北に長い曲輪で、複数の櫓が現存しています。南東部の櫓群は高架通路から見下ろすことが出来ます。写真は右(南)から田子櫓、七間櫓、十四間櫓です。

高架通路の終点、本丸御殿大広間の傍です。が、こちら側には本丸御殿大広間の入口はなく、建物の下に潜り込む通路しかありません。

※現在はここに見学者用のトイレがあります。

天守に行くためには、本丸御殿の地下にあるくらがり通路を通らなければなりません。本丸御殿が複数の石垣にまたがって建てられているという特殊な構造です。

本丸御殿闇り通路の出口がこちら。奥に見えるスロープは、おそらくバリアフリー対応の改修でしょう。

本丸に入りました。初期方向正面に大小天守、左手に本丸御殿大広間大銀杏、後方に長局櫓があります。

では次の記事では天守へ突入します。

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