津和野城 その1

津和野城について

津和野城本城(現地案内より)

歴史

鎌倉時代の永仁3年(1295年)、吉見頼行が築城を開始し、頼行の子・頼直の代になった正中元年(1324年)に完成しました。この時代の城は現在とは姿の異なる中世様式の山城でした。

戦国時代まで14代にわたって津和野城は吉見氏の居城でした。天文23年(1554年)の三本松城の戦いのよってそれまで関係の深かった大内氏から離反、天文24年(1555年)の厳島の戦いをきっかけに吉見氏は毛利氏に従うようになりますが、津和野城(三本松城)はそのまま吉見氏の居城でした。

江戸時代に入り、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れると、吉見氏は津和野城を出て萩に移ります。替わって関ケ原で東軍だった坂崎直盛さかざき なおもりが入城、この時代に津和野城は大改修を行って近世城郭へと生まれ変わりました。出丸や天守が築かれたのもこの頃です。

元和2年(1616年)に千姫事件で坂崎直盛が自害。坂崎氏が津和野城の城主であったのは1代・16年だけでした。元和3年(1617年)、亀井政矩かめい まさのりが入城、それ以後明治維新まで津和野城は亀井氏の居城でした。

構造

標高367mの霊亀山れいきさん山上に築かれた山城で、尾根に沿って多数の曲輪が配置されています。坂崎直盛によって近世城郭に改造された後の本城は、三の丸が西と南の二方に細長く伸びる形状だったり、天守台が三十間台(本丸)より一段下にあったりと、独特の構造をしています。

いざ登城

津和野城へ登るには、この津和野城観光リフトを利用すると便利です。駅からここまではコースにもよりますが1.5~2kmほどあり、徒歩だと20~30分かかります。100名城スタンプのあるリフト茶屋というのもこの建物です。乗る前に忘れずにゲット。

スキー場にあるような椅子式のリフトで、高低差100mをほんの5分、楽々登城です。
山上側のリフト降り場付近から津和野市街地を見下ろすと、驚くほど高く登ったと感じます。

リフト降り場から津和野城三の丸東門までは15~20分ほど歩きます。上り下りはそれほどキツくはないですが舗装された道ではありませんのでトレッキング用の靴をオススメします。

堀切・出丸

歩き始めて2、3分のところに堀切がありました。左に伸びているのが堀切で、右奥に続く道は登城路です。

さらに2、3分歩いていくと、登城路の斜面の上に出丸の石垣が見えます。

この出丸は吉見氏に替わって入城した坂崎出羽守直盛が津和野城改築の際に築いた曲輪で、築城の指揮をとったのが家老・浮田織部だったことから織部丸とも呼ばれています。
門の両側に二層の隅櫓があり、周囲を囲むには多数の鉄砲狭間が設けられ、防備が固められていました。

津和野百景の第二図『三本松城出丸』に出丸の絵があります(津和野町日本遺産センターのサイト)

近づいて石垣をよく見て見ます。赤いマークは何かの調査中なのでしょうか。

出丸の全体の様子です。ベンチが置かれ展望台として利用できるようになっている一方で、あちこちで発掘調査か整備工事を行っているような様子です。

出丸を跡にしてさらに進みます。補修作業中なのかこのような通路が作られていました。

大手道

途中、すこし広くなっていて、津和野城の歴史を解説するパネルが置かれている場所があります。ここでリフトから(出丸から)の道と、麓から徒歩で上ってくる道(大手道)が合流します。本丸はこの写真の右奥の道を進みます。

本城東門周辺

本城(三の丸・二の丸・本丸)の石垣が見えてきました。何重にも重なる複雑な構造をしています。本城の入口である東門はこの写真の右手奥です。

東門

東門です。津和野城が近世城郭に作り替えられてからは本城の大手門として使用されました。現在は補修工事のためか金属製の通路が取り付けられています。周辺もネットが架けられてなにかの工事中のように見えます。

東門階段の上から撮影。周囲に東門の構造が見えます。階段を上った先から初期方向左手に向かって細長く伸びるのが二の丸、二の丸と平行する一つ下の段が腰郭、腰郭のさらに左に隠れるように下っていく道はリフト乗降場からここまで歩いてきた道(大手道)です。二の丸は途中に柵があって区切られていました。柵の向こう側で天守台からの道と合流し、奥で上り斜面になって太鼓丸に接続します。

初期方向右手には津和野城の特徴的な形状の1つである三段の石垣、それに沿っておくに進むと天守台の前を通って三の丸へ行けます。記事冒頭の本城平面図も参照して下さい。

三段の石垣

津和野城の見所の一つ、三段の石垣。ここには三段櫓がありました。

次は三の丸へ。

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