犬山城

犬山城について

城とまちミュージアムのジオラマ

歴史

天文6年(1537年)、織田信秀(織田信長の父)の弟・織田信康おだのぶやすによって現在の位置に城が築かれました。信康の子・信清は織田信長と争って敗れたため城主は信長の重臣である池田恒興になり、後に信長の子・の勝長が城主となりました。
関ヶ原の戦いの後は徳川方の城となります。江戸時代の元和3年(1617年)、尾張藩付家老の成瀬正成なるせまさなりが城主となり、この時期に唐破風出窓が増築されるなど天守が現在の形になったとされています。その後明治時代まで成瀬氏の居城でした。
明治4年(1871年)に犬山城は廃城となり櫓などは取り壊されましたが、天守は残されました。明治28年(1895年)に犬山城は旧藩主の成瀬正肥なるせまさみつに無償譲渡されました。
昭和27年(1952年)、犬山城天守が国宝(新制度)に指定されました。
平成16年(2004年)、犬山城は成瀬氏個人の所有から財団法人犬山城白帝文庫の所有になり、さらに犬山城白帝文庫が公益財団法人に移行して現在に至っています。

構造

木曽川を背後にした標高80mの城山の頂上に本丸を築き、斜面に階段状に複数の曲輪を築いた梯郭式の平山城です。木曽川に面した北側は断崖となっています。
天守は三重四階+地下二階、平屋の付櫓が付属する望楼型複合天守です。

現状

城址に残る現存建築は天守のみです。ただしいくつかの門や櫓は明治時代に払い下げられて他所へ移築され、(今回は見学できませんでしたが)現存しているものもあります。
現在の本丸門は旧鉄門のあった位置にありますが、鉄門の忠実な復元というわけではないようです。

いざ登城

犬山遊園駅から川に沿って犬山城に向かうと、すぐに天守が見えてきます。また山登り…といっても80mくらいしかないのですぐ登れてしまいます。

登城口、記事冒頭全体図(ジオラマ)の中門付近です。

と思ったら、すぐ隣にある三光稲荷神社さんこういなりじんじゃに『犬山城近道』などと書いてあります。こっちをいった方がいいのか…?
三光稲荷神社は創建天正14年(1586年)とも言われる長い歴史のある神社です。江戸時代には城主成瀬氏の守護神ともされました。昭和39年(1964年)に現在の位置(旧松ノ丸の西部)に移転しました。

神社奥にあるこの鳥居をくぐると大手道と合流しました。
たぶん大手道を登るのとほとんど距離は変わりません。またこちらを通ると少し後戻りすることになる堀跡を見忘れがちなのでご注意を(←見忘れた人)。

黒門~本丸門

三光稲荷神社から大手道に合流したすぐ先には櫓台の石垣のようなものがあります。たぶん桐ノ丸の南西にあった道具櫓の跡だと思います。上の建物は櫓の復元ではなく、針綱神社はりつなじんじゃの社務所のようです。

そのすぐ先は黒門の跡です。
黒門をくぐった先(この写真の奥)で道は左に曲がり、さらに登っていきます。角の向こうは桐ノ丸の跡で、いまは針綱神社になっています。

黒門には礎石が1つ残っています。

あとは本丸までまっすぐな坂が続いています。
坂に沿って下から、右手に桐ノ丸・左手に樅ノ丸・右手に杉ノ丸と交互に曲輪があり、敵が坂を登ろうとした場合は両側から攻撃し、もし敵が曲輪の一つを占拠したとしてもそれよりも高い位置から攻撃をかけられるという構造でした。

大手道の坂を登り切ったこのあたりには岩坂門いわさかもんがありました。
右手の石垣の上には杉ノ丸御成櫓、左手の石垣の上には本丸鉄砲櫓、奥には鉄門くろがねもんがあり、一種の枡形になっていました。

岩坂門近くにある鈴木玄道すずきげんどう顕彰碑
鈴木玄道は犬山城城主・成瀬家の御殿医だった人物だそうです。 記念碑の題字は犬山藩9代藩主(最後の藩主)成瀬正肥によるものです。

鉄門近くにある内藤丈草ないとうじょうそう句碑
『涼しさを 見せてやうごく 城の末』
とあります。
内藤丈草は江戸時代の俳人です。成瀬家家臣の子として生まれましたが27歳にして俗世との関わりを絶ち、松尾芭蕉の弟子となって蕉門十哲の一人に数えられるまでになった人物です。

岩坂門跡を過ぎてすぐ、本丸を護る鉄門に到着。
現在の門は江戸時代の物が残っているわけではなく、外観だけそれらしく復元したものです。
この門から先は本丸、有料エリアです。右フレーム外にチケット売り場があります。

本丸

門を入ってすぐの所にある内外一誠碑
幕末期の犬山藩士八木雕やぎあきらの功績をたたえたもの。八木雕は明治維新後に新政府の役人としても活躍しました。

いま入ってきた鉄門の2階部分は事務所になっています。100名城スタンプはこちらで。写真右手に階段があります。

右奥にも櫓のような建物が見えます。位置は本丸鉄砲櫓の跡ですが、復元建築というわけではなく模擬櫓のようです。

そしてやってきました、犬山城天守
外観三重、内部四階、穴蔵(地下・石垣の中)二階の望楼型天守です。大きな唐破風附櫓(向かって右側にある手前に出っ張った部分)が外観上の特徴です。
現存十二天守のひとつ・国宝・もっとも遅くまで個人所有だった天守、といろいろな特記事項のある天守でもあります。

天守内

地下

入口は石垣部分です。石垣のすぐ上を1階とすると、ここは地下2階にあたります。急な階段、狭いスペースです。

地下1階、または踊り場です。石垣を内側から観察出来るポイントでもあります。

1階

1階に登ってきました。1階から地下1階を見下ろすとこんな感じ。現存天守はどこもそうですが、階段というよりほとんどハシゴのような急傾斜です。

天守1階全景。中央部分は壁に囲まれていて、武者走(外周の通路)に沿って鎧などの展示物があります。写真右奥・左奥に続く武者走のそれぞれ二箇所ずつに敷居・鴨居があるのもちょっと変わっています。かつては襖か木戸かなにかで区切っていたのでしょうか。

1階中央部分、上段の間。太い柱で囲まれ、他の場所より一段高く、逆に鴨居は他の部屋より低い位置にあります。さらに畳敷きという、天守内としてはちょっと珍しい部屋です。本来なら天守ではなく御殿の、藩主の部屋によくある構造です。
奥には武者隠しの間(納戸の間)もあります。武者隠しの間は三方が壁で出入り口は上段の間の奥にある小さな扉のみ。現在は立ち入りどころか、中を除くこともできません。

1階中央部、第1の間、だったかな…木製の犬山城天主模型がありました。

付櫓

犬山城天守の大きな特徴、南東隅(南面東端)の付櫓つけやぐらです。天守1階の武者走から接続していますが、床が一段下がっています。写真右手の窓からは天守入口が見下ろせます。敵が天守前まで押し寄せた場合、天守に入ろうとする敵に対して上方から鉄砲や矢で攻撃をかけることが考えられていたのかも知れません。

付櫓側から見た方が段差の高さが判りやすいですね。

天守1階の北西隅(西面北端)には石落としの間があります。名前に反して、床には石を落とす開口部がみあたりません。
南東の付櫓に較べて小さく、位置も鉄門側から見ると裏手にあるため印象は薄いのですが、 こちらも付櫓の一種です。

2階

天守2階も、中央部に部屋・周囲に武者走という構造になっています。
1階と違い、武者走は平坦な床で敷居・鴨居で区切られていません。

2階中央部は武具の間と呼ばれ、武器棚が設けられています。
現在は現存十二天守の写真と、犬山城天守の骨組みの模型が展示されています。

3階

3階は急に狭く、天井も低くなります。
3階は唐破風からはふの間と呼ばれています。南北の面には唐破風、東西の面には入母屋破風いりもやはふが配置されています。唐破風は築城当時はなく、成瀬氏の時代に増築されたといわれています。

唐破風の出窓部分です。

4階

4階・最上階は高欄の間と呼ばれています。
なんと日本の城としては非常に珍しい絨毯敷きです。成瀬家7代当主成瀬正壽まさなががオランダ商館長と親しかったことから天守に絨毯が敷かれたと伝えられていたのを昭和の天守の修復時に再現したものだそうです。

外に出ることもできます。北側、木曽川を見下ろしています。
ビミョーに外に向かって傾いていて恐いです(苦笑

南側、本丸全体を見下ろしています。

下山

本丸北にある七曲門。左右両側に礎石、周囲には石垣が残っています。
かつてはここから木曽川方面へ降りられたようなのですが、現在は一段下がった場所が木曽川を望む展望台のようになっているだけで、それ以上進む道はないようです。

帰りは針綱神社の方から降りてみました。
針綱神社は旧桐ノ丸と旧松ノ丸の東部分にまたがっています(松ノ丸は駐車場)。もとは桐ノ丸と松ノ丸の間を、大手道を通らず直接行き来できるようにはなっていなかったはずですが、現在は段差のある2つの曲輪跡を結ぶ階段ができています。

これで犬山城の見学は終了。次は城下街を歩きます。

データ

Webサイト国宝犬山城
アクセス登城口(中門)まで、名鉄犬山駅または犬山遊園駅より徒歩15分
開館時間09:00~17:00
休館日年末年始
入館料550円
※城下町周遊券つきなどのセット券あり

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