鳥取城 その1

鳥取城について

今回は全体が判りやすい平面図を現地で見つけられませんでした…。

100名城登城98城目、鳥取城です。

歴史

鳥取城は戦国時代中期、因幡国(現在の鳥取県東部)守護の山名誠通やまな のぶみちが家臣・武田国信たけだ くにのぶに命じて築城したと言われていましたが、最近の研究では異説もあるようです。
元亀年間には下克上によって山名氏家臣だった武田高信たけだ たかのぶ(武田国信の子)が下克上によって城主になっていましたが、尼子残党と結んだ但馬山名氏の山名豊国に攻撃されて城を明け渡しました。その後何度かの戦いを経て天正3年(1575年)に山名豊国が城主となります。

天正8年(1580年)に羽柴秀吉の第一次鳥取攻めにより豊国は織田方に降服、臣従しますが、直後に毛利氏にも降服。豊国は鳥取城を離れ、天正9年(1581年)3月に毛利氏の家臣・吉川経家きっかわ つねいえが城主となります。

同年4月、豊国が織田方へ送った密使が毛利家家臣に斬られたことで豊国の小田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の元に出奔します。これにより秀吉は第二次鳥取攻めを開始、4ヶ月に及ぶ兵糧攻めの末に城主・経家が自決して開城します。開城の後は吉川氏・山名氏家臣に代わり、秀吉の与力であった宮部継潤みやべ けいじゅんが城代となり、織田方の山陰攻略の拠点となります。

関ケ原の合戦では宮部家は西軍に着いたため、後に東軍に攻められ開城、池田長吉いけだ ながよし(池田恒興の子、池田輝政の弟)が入城。江戸時代になり、長吉は初代因幡藩主となりました。長吉の死去後は長吉の子・池田長幸が城主となりましたが、元和3年(1617年)に備中松山へ転封、代わって池田光政(長幸の従兄弟)が入城し、32万5千石にふさわしい規模に城を拡張しました。その後備前岡山藩の池田氏と所領の交換が行われ、鳥取城には池田光仲が入城し、以後明治維新まで池田氏がこの地を治めました。

構造

久松山の山頂にある山上ノ丸と、山麓にある二の丸三の丸天球丸などを含む山下ノ丸からなります。梯郭式の縄張りです。

今回は旅行最終日で体力が残っていなかったため(苦笑)平山城部のみの見学でした。

見学ガイド

二の丸と天球丸、山上ノ丸が城址として保存され、石垣や建物礎石などが多く残っています。天球丸に復元された巻石垣は城郭の構造としては非常に珍しく、必見です。三の丸は現在高校になっていますが、付近で発掘調査または復元工事が行われているようでした。
丸の内は現在は久松公園となっており、中仕切門や宝珠橋が復元されています。

いざ登城

鳥取城は鳥取県庁のすぐ近くで、JR鳥取駅からバスで容易にアクセスできます。

8:15に久松公園入口に到着。博物館などはまだ開館時刻前ですが、城址に入ることは出来ます。

公園入口には歌曲『ふるさと』のモニュメントがあります。作曲者の岡野貞一氏が鳥取県邑美郡(現在の鳥取市)の出身なんですね。なんとさだまさし、由紀さおり&安田祥子、EXILE ATSUSHI、島谷ひとみ、鳥取市交響楽団…などのなかからアーティストを選んで演奏を聴ける機能付き。

ちなみに現在公園のメインの入口になっているのは北ノ御門。城の正門であった中ノ御門は、2018年9月現在橋の復元工事中です。

公園と道路の間には水堀が残っています。

丸の内

水堀を超えて久松公園に入ります。平坦で広いこの区画には、池田光政時代には藩士の屋敷が、それ以降は蔵などが建ち並んでいたそうです。現在は仁風閣、県立博物館、県立鳥取西高等学校のグラウンドなどがあります。

公園に入ってすぐ右手に広がる芝生の広場には、かつて米蔵があったそうです。左手奥に見える洋館は仁風閣です。まだ開館時刻前なのでそのまま通過。

右膳の丸

博物館の近くにある西坂下御門(中仕切門)を通って城址へ入ります。
この門は慶応3年(1867年)に建てられましたが昭和50年(1975年)に倒壊。現在あるのは復元ですが、オリジナルが昭和後期まで残っていただけにかつての姿をよく再現しているのではないかと思います。

某マップではこの位置に北ノ御門のマーカーがありますが、北ノ御門は水堀を渡ってすぐの位置です。

西坂下御門をくぐった後は階段と坂道が続きます。

ひととおり登ると右膳の丸うぜんのまる。城代・高木右膳の屋敷があったことからこの名で呼ばれているそうです。

右膳の丸は二の丸に較べるとずっと小さな曲輪です。建物はまったくのこっていませんが、背後には二の丸の石垣が観られます。

二の丸

右膳の丸を通り抜けて、二の丸に向かってさらに登りです。高低差は10mほど。

登石垣

この短い階段を上れば二の丸ですが、その前に左手の石垣に注目。

短い階段を上りきったところから観るとこんな感じ。坂道?階段?と思ってしまいますが、登石垣のぼりいしがきという山の斜面に沿って作られた石垣の一種です。幕末のものとしては国内で唯一のものだそうです。(江戸時代初期のものは松山城や彦根にも現存しています)

二の丸全景

二の丸へ。二の丸は複数の櫓や藩主の御殿があり、山下ノ丸の中心となる曲輪です。建物は現存していませんが、御三階櫓や菱櫓の石垣が残っています。

石切場

二の丸の背後の崖には石垣はありません。一部は岩が剥きだしになっており、そこから石垣のための石を切り出した石切場の跡が残っています。二の丸を作るため、もともとこの場所にあった尾根を切り崩しつつ、掘り出された石材で石垣を築いていったようです。城内から石が得られたことから、石材の運搬のためのコストが最小限に抑えられたことでしょう。ただし近年の修復では、久松山きゅうしょうざんの保全のため他地域の石材が使われているそうです。

石切場に残された岩の一部に、このような長方形の穴がみられます。これはと呼ばれる岩を割るためのクサビ状の道具を打ち込むための穴で、矢穴と呼ばれるそうです。

三階櫓

二の丸の石切場の少し先には御三階櫓の石垣が見えます。

御三階櫓のすぐ近く、図面によるとこのあたりに裏御門があったようです。通常はここを下って御三階櫓の石垣を下からみることが出来るはずなのですが、僕が行ったときは補修中なのか通行止めになっていました。

裏御門跡の下り階段の反対側から御三階櫓の石垣の上に登ることが出来ます。
御三階櫓は明治12年に解体されました。

近くには、修復工事で発見された天端てんぱ角石(石垣上面の角の石)が展示されています。
『享保十三戊申九月二日
   吉田氏甚四郎尉久政
   (以下略)』
と、日付や普請奉行・職人棟梁の名前などが刻まれています。写真だと周囲の植え込みの影がかかってしまってちょっと見難いのですが、『三』や『吉田』あたりの字は確認しやすいと思います。
この記述から、享保5年(1720年)に御三階櫓が焼失しており、その再建にあたって建物だけではなく石垣も修復されたことがわかります。

御三階櫓石垣の上に登りました。1階は8間(14.4m)四方の大きさがあります。
ちょうど目の前に仁風閣を見下ろすことが出来ます。

表御門

二の丸南東部には、表御門菱櫓があります。バス停からは北ノ御門の方が近いためまわる順序が逆になってしまいましたが、本来はこちら側から二の丸に入るのが正式な登城路ですね。

表御門の枡形を二の丸側から。補修・整備工事が行われているようで、あちこち柵やロープで通れなくなっていたり、シートが掛けられた箇所があったりします。

表御門の枡形を外側から。初期方向左後方の坂を下ると三の丸太鼓御門中ノ御門擬宝珠橋がありますが、太鼓御門から擬宝珠橋にかけてはなにか工事中のようです。橋は通行止めのようですが中ノ御門の手前あたりまでは行けそうなので後ほど見学します。
初期方向右手には二の丸より一段高い天球丸の石垣が見えます。

表御門の石垣の上から。三の丸から天球丸にかけての斜面に複雑な形状の石垣があることが判ります。

※VR写真が1ページ4枚を超えるとバグことがあるようなので記事を分けます

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