吉田郡山城 その1

旅行7日目の午後は今回の旅行最後の城攻略、日本100名城72番の吉田郡山城です。登城84城目です。

吉田郡山城について

現地案内板より

歴史

吉田郡山城は、鎌倉末期~南北朝時代の武将・毛利時親もうり ときちか(毛利元就の9代前の祖先)によって築かれたといわれています。当初は小規模な砦程度でしたが、毛利元就の時代に拡張をはじめ、元就の孫・毛利輝元の頃までに城は郡山全体に広がり、近代化されました。しかし天正19年(1591年)に広島城が完成すると毛利氏の本拠地はそちらにうつり、まもなく吉田郡山城は事実上廃城となりました。それまで約250年間、吉田郡山城は毛利氏の城でした。

慶長20年(1615年)の一国一城令により吉田郡山城は取り壊されました。文久3年(1863年)に広島新田藩が成立、麓に陣屋が置かれますが、明治時代の廃藩置県に伴い陣屋も取り壊されました。

構造

吉田郡山城は、標高390m(比高190m)の郡山山頂に本丸を置き、そこから伸びる尾根上に多数の曲輪を配置した山城です。

いざ登城

吉田郡山城は広島県北部の安芸高田市にあるのですが、行くのがなかなか大変です。地図で見ると芸備線の吉田口駅が近そうなのですが芸備線の本数が少ないので、今回はバスで行くことにしました。  

JR横川駅よりバスで90分。最寄り駅の鉄道便数からして人口の少ない町を想像していたのですが、意外にも人口密度が高そうな市街地でした。

吉田郡山城最寄りの 安芸高田市役所 バス停に到着。右手奥の建物が市役所で、手前は クリスタルアージョ という市民文化施設だそうです。広島から来たバスは道の向かい側に到着、市役所前の小さな屋根の部分が広島バスセンター方面のバス停です。

バス停は『次のバスが何分後に来るか』を表示するパネル付きでした。うちの近所より進んでるじゃないか…。

バス停から500mほど歩いて 安芸高田市歴史民俗博物館。予想よりはるかに規模が大きくてビックリ。城山に上っている間に閉館時間になってしまうとイヤなので、先に展示を見学&スタンプゲット。なかなか充実した展示でした。今回の旅行で巡った城は古代城郭である鬼ノ城以外はみな毛利氏と関わりがあり、毛利元就の没した地であるこの吉田郡山の展示はその総まとめとなるものでした。

では登城開始。記事冒頭の地図の左下が民俗博物館なので、そこから大きく時計回りに進んで一周するプラン。地図右下の本城は体力や時間の余裕があれば、ということで。

博物館のすぐ裏あたりで登山杖が借りられます。あった方が楽です。

先ほどの地図にあった 三矢の訓碑 はこの 少年自然の家 の敷地内にあるのですが、見学自由のようです。門に各自で開けて見学するようにとの案内がありました。

本格的に上る前にちょっと寄ってみます。

三矢の訓碑。この碑があるあたりには毛利元就の屋敷があったと伝えられていますが、発掘調査では遺構が見つかっていないとのこと。

これも少年自然の家の敷地内にある毛利元就像。道路からすぐの場所なのですぐみつかります。

少年自然の家を出て道に戻り、少し登った場所です。
ここは 毛利元就火葬場跡 、元亀2年(1571年)に元就が75歳で世を去ったとき、この場で荼毘に付したという言い伝えがあるそうです。火葬の際には10間(18m)四方に小石を敷き詰め、沈香を炊いたといわれています。現在ある3間四方の小さな石垣は後になって築かれた物でしょう。

さらに少し登ると、斜面に大規模な公園があります。大通院谷公園といい、このあたりは旧石器時代から近世までの遺物が大量に出土しているそうです。

さらに上ると、薬研堀やげんぼり(断面がV字になっている堀)があります。

毛利元就公墓所

毛利元就公墓所参道とありますが、吉田郡山城本丸方面もこの道です。この先は舗装されていますが車両進入禁止です。この鳥居のすぐ手前に駐車場があるのですが一般車が利用可能なのかどうかは判りません。

しばらく参道を進みます。

参道途中には毛利家側用人の墓所があります。
側用人が10人いたことからこのあたりは用十郎という地名になりました。

毛利一族墓所に到着。このあたりは、元は毛利氏の菩提寺である洞春寺どうしゅんじの跡です。洞春寺は元就の三回忌にあたる天正元年(1573年)、元就の孫・輝元によって創建されました。毛利氏が拠点を広島に移すと洞春寺も広島に、さらに毛利氏が萩へと移封となると洞春寺も萩に移りました。

駐車場から直線距離で200mほどしか離れていないのですが、斜面を回り込むように登ってているためかまったく車の音も聞こえず人の気配もなく、静かです。

初期方向正面の階段を登って右手に毛利元就の墓所、左手に百万一心の碑、初期方向右手には毛利一族の墓所があります。

毛利家墓所。左から毛利興元(元就の兄、24歳で他界)の墓、幸松丸(興元の長男、2歳で父の跡を継いだが9歳で他界)の墓、毛利隆元夫人(隆元は元就の長男で夫人は大内義隆の養女だった)の墓、先祖合墓(初代城主毛利時親から8代豊元まで)です。

もとは郡山城下に別々にあった墓所から、明治2年(1869年)に洞春寺跡に移葬されました。

毛利元就墓所。墓標にハリイブキ(ウコギ科の落葉低木)が植えられました。現在は枯れてしまっていますが墓所内右手の白い樹がその名残です。

百万一心の碑。『百万一心』とは、吉田郡山城普請の祭、人柱の代わりに埋められた石に刻まれた言葉なんだそうです。実はよく見ると、

『百』ではなく『一日(ノの部分がない)』、
『万』ではなく『一力(横棒がはみ出している)』

繋げて『一日一力一心』とも読めるようになっているんですね。

百万一心の碑の近くに登山口があります。

登りはじめは石で舗装されています。

登山口からほんの数分登った場所にある嘯岳禅師しょうがくぜんじの墓。嘯岳禅師は2度も明に渡って修行を積んだ高僧です。毛利元就のの葬儀の導師を勤め、洞春寺を開山しました。

嘯岳禅師の墓のすぐ近く、第一号古墳と書かれた立て札があったのですが名前以外に説明なし。

嘯岳禅師墓所のあたりから先の道は舗装はされていませんが、しばらくは比較的平坦です。

突然登ったり下りたり、左右にもくねくね曲がった道になりました。このあたりは釣井の壇の下あたりのはずです。

本丸周囲の壇

平坦な場所に出ました。ここは御倉屋敷みくらやしき、東西20m×南北30m=600平方メートルの広さがあります。散乱する石は崩された石垣の跡でしょうか。

道が二手に分かれていますが、右手に進むと三の丸、左手に進むと釣井の壇です。今回は左手に進みます。

釣井の壇にあった案内板より

ここからは、本丸から放射状に伸びる尾根上の曲輪を時計回りに見て行くことになります。

御倉屋敷跡から少し下がって、釣井の壇跡です。長さ75m、幅15mの細長い曲輪です。右手の斜面上が本丸、左手の斜面の下には先ほど登ってきた道があります。

釣井の壇には直径2.5mの石組み井戸があります。本丸に一番近い水源です。
現在は深さ4mの位置まで埋まってしまっていて水はありません。

姫の丸壇跡です。本丸から北に向かって三段に伸びる曲輪です。この壇の背後にある本丸石垣の中に『百万一心』の礎石を埋めたという伝説があるそうです。

釜屋の壇跡です。20m×24mの台形の曲輪です。

厩の壇跡。本丸から東南へ400mの尾根に沿って7段、北に分かれて4段、多数の曲輪が並んでいます。姫の丸の壇に較べて段毎の高さの差が大きく、ハッキリと階段状の構造が見えます。

三の丸

三の丸跡です。三の丸は城内最大の曲輪で、東西40m×南北47mの広さがあります。初期方向奥に見える一段高くなっている場所が二の丸です。

破壊された石垣の跡のようです。

三の丸と二の丸の間は約3mの段差があります。

二の丸

二の丸。本丸の南に位置し、東西36m×南北20mの広さがあります。

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