篠山城 その1

篠山城について

17世紀後半頃の篠山城
(現地解説パネル掲載の古絵図)

100名城登城95城目は、兵庫県の篠山城ささやまじょう(57番)です。

歴史

篠山城は、慶長14年(1609年)に徳川家康の命により築城されました。山陰道の要衝である篠山に城を築くことで、豊臣方の拠点である大坂を包囲し、また西国に多い豊臣恩顧の諸大名を牽制することを狙ったようです。工事は天下普請とされ、豊臣方の大名の経済力を弱めることにも利用されました。1年にも満たない突貫工事でほぼ完成させたと言われています。

大坂の陣で豊臣家が滅亡した後も、幕府にとって西の重要拠点であることは変わらず、
松井松平家(三川松井家、功績によって松平姓を許された)1代
藤井松平家(徳川家康の高祖父である松平長親の五男・利長を祖とする松平家の庶流)2代
形原かたのはら松平家(室町時代の武将・松平与副ともすけを祖とする松平家の庶流)5代
青山家(徳川家康の父・松平弘忠の時代から使える家臣)6代
と、明治維新まで徳川家からの信頼の厚い譜代大名が歴代城主を務めました。

構造

篠山城は、独立した小さな丘の上に建てられた平山城です。冒頭の古絵図や地図でも判るとおり『回』の字のような二重の堀が特徴的です。外堀は1辺約400m、内堀は1辺約200mのほぼ正方形になっています。内堀の内側に二の丸と本丸、内堀と外堀の間が三の丸で、本丸と二の丸をぐるっと囲む構造(輪郭式)となっています。
この縄張りの設計は築城の名手と呼ばれる藤堂高虎が担当しています。

現状

三の丸・二の丸・本丸が城址として整備されています。二の丸には御殿の一部である大書院おおしょいんが復元され、内部も公開されています。また、外堀の南と東には馬出の構造が残っています。

いざ登城

篠山城へは、JR福知山線の篠山口駅よりバスでアクセスしました。『篠山営業所』行きに乗車、『二階町』バス停が最寄りです。バスの所要時間は篠山口駅から15分くらいでした。

バス停から南へ200mほど歩くと外堀です。
篠山城の外堀は1辺約400mの正方形になっています。その内側に1辺約200mのこれまた正方形の(外堀よりやや凸凹がありますが)内堀があり、上空から見ると漢字の『回』のような形状をしています。各辺はだいたい東西南北に向いており、北側の辺の中央(ちょうどこの写真を撮った場所)には堂々とした大手門があったようです。外堀を渡ると三の丸です。
バス停から繋がる道(外堀北側)にも馬出があったようですが、現在は判別できません。

篠山市サイトに復元CGがありました→こちら

三の丸、内堀北側の広場です。三の丸の北側の南側は広場、西側は駐車場、東側には幼稚園と小学校があります。正面に二の丸・本丸への道が続きます。

内堀を渡って二の丸へ。
復元CGによると、かつてこの道は壁と屋根のある廊下門になっていたようです。

外堀はほぼ正方形なのですが、内堀はこのように数カ所で折れ曲がっています。

表門

このS字カーブは表門枡形の跡ですね。
ここも篠山市サイトに復元CGがありました→こちら
復元CGによると、ちょうどこの写真を撮っているあたりに1つ門があったようでねす。

二の丸

このあたりには鉄門くろがねもんがあったようです。いまはただの冠木門のようですが、当時はちゃんとした門櫓があったようです。

入るとすぐ大書院おおしょいんの玄関があるのですが、到着時はまだ開館時間前(掃除機をかけている音が聞こえてくるw)だったので先に屋外を見て回ります。

大書院の裏手に回ると、全体図(御殿整備図)がありました。この図の下側が表門です。

ここには二の丸御殿が平面復元されています。
篠山市サイトの復元CGは→こちら

※大書院内の模型ではこちらが本丸・天守台のある郭は殿守丸と名称が異なっています

二の丸南部(表門から見ると最奥)には井戸跡がありました。

ちょっと覗いてみましたが水があるかどうかは判りません…。

二の丸南端にある埋門うずみもん。現在は出入りに使われていないようですが石段はきれいに残っています。
復元模型によると上部には大型の櫓があったようです。

本丸

続いて本丸へ。本丸は二の丸より一段高くなっています。本丸は現在、青山神社になっています。

本丸の中心付近より全景VR。
大書院内の復元模型によると天守台と外周の櫓以外の建築物はもともとなかったようです。

本丸の南東隅には天守台(または殿守土台)が残っています。
天守はもともと建築されず、天守台のそのまた南東隅に小さな櫓があっただけのようです。

篠山市サイトの復元CG→こちら

天守台の上にも登れます。

天守台からは、三の丸(内堀と外堀の間)が見下ろせます。
現在は篠山小学校になっています。

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