掛川城

三の丸

三の丸は現在、公園になっています。正保城絵図によると、三の丸の南東隅には三重櫓、北東隅には二重櫓があり、周囲を土塀で囲まれていて、南側は逆川に面していました。

なぜか入口には鯱が…。

本丸

三の丸公園と車道を挟んだ向かいにある四足門よつあしもんから城に入ります。

四足門を内側から。調査では門の後が見つかっていないのですが、正保城絵図ではたしかにこの位置に門が描かれています。門の内側、つまりまさにこの写真を撮っているあたりには入城者を監視する番所がありました。

掛川城全体の立体模型がありました。手前が南、奥が北の向きです。この模型では右手前(本丸南東側)が二の丸・右奥(本丸北東側)が三の丸と、現在の曲輪の呼び名と逆になっています。実は正保城絵図ではこの模型の表示が正しく、宝永4年(1707年)の大地震後の再建で二の丸と三の丸の機能が入れ替えられ、現在のように南東側が三の丸、北東側が二の丸になりました。

この記事では宝永大地震後の曲輪の呼び方に倣っています。

門から入って左手の石垣の上を見上げると太鼓櫓があります。この太鼓櫓はもとは三の丸にあったのを移築したものです。

石垣の間を通った先が本丸です。正保城絵図によるとこの石垣の上にもう1つ門(櫓門)がありました。

本丸は現在広場になっています。多数の桜の樹に囲まれ、晴れていればさぞ良い景色だったろうと思います。

本丸から天守を見上げています。掛川城は、天守は本丸と独立した天守丸という曲輪にあります。写真でも判るとおり高さもだいぶ違います。

天守丸

天守丸への階段を上ってきました。現在は写真の通り天守丸の入口は簡素な冠木門になっていますが、正保城絵図には二重の櫓門が描かれています。

天守丸に入ってしまうと天守が近すぎて全体を撮れません&やたらとアオリです。

掛川城には三重の天守がありましたが安政元年(1854年)に発生した安政東海地震で倒壊、その後江戸時代中には再建されませんでした。現在の天守は平成5年(1993年)に城絵図などの資料を元に木造で再建されたものです。実は木造で天守が復元されたのは掛川城が国内初でした。

現在の天守は複合式望楼型三重四階、途切れてしまっていますが写真左手前に伸びる附け櫓から出入りするようになっています。

天守のすぐ前には井戸があります。永禄12年(1569年)に掛川城が攻められた際、この井戸から霧が噴き出して城を包み、攻撃から守ったという伝説から、霧吹き井戸と呼ばれています。深さは45mで、日本第3位です。

天守

掛川城天守図面(現地解説板より)

1階

天守1階。5×6間と床面積はそれほど広くはありませんが、天井はかなり高めです。
鎧、瓦、馬具などが展示されています。

これは掛川城を近世城郭に改修した山内一豊の騎馬像です。

2階

2階部分。床面積は1階よりやや狭い程度のはずですが、天井が低く太い梁が頭上すぐに迫っているような感じで実際以上に狭く感じます
奥のモニターでは復元工事の様子などを紹介するビデオが流れていました。

2階には鯱の実物大の複製品が展示されています。。

二階を別角度から。写真左手には低い位置に狭間があることが判ります。

武者隠し

掛川城天守は外観三重ですが、2階と最上階の間には武者隠しと呼ばれる空間があります。独立した階層というよりは2階のロフトのような感じですが、この武者隠しを3階と数えれば最上階は4階ということになります。

最上階

最上階は1階・2階にくらべて床面積がかなり狭く、天井も低めです。四方は大きく開いていて、晴れていれば眺めが良いと思います…雨…。

南側の本丸を見下ろしています。手前中ほどには霧吹き井戸、土塀の向こうは一段下がって本丸、左奥には太鼓櫓や四足門が見えます。

東側を見下ろすと二の丸御殿が見えます。

二の丸

天守丸から降りて、次は二の丸へ。

二の丸茶室。数寄屋造りの木造平屋建の伝統建築ですが城時代の建物の復元というわけではありません。将棋の王将戦七番勝負第1局が行われることで有名です。

二の丸美術館。平成10年(1998年)開館、展示室2つだけのコンパクトな美術館です。近代日本画の鈴木コレクションとたばこ道具などの木下コレクションが所蔵品の柱になっています。天守・御殿とのセット割引き入場チケットあり。

左手前に並んでいる2つの大きな石のオブジェはジュン・スズキ氏の阿吽という作品です。

美術館のすぐ近くにある二の丸御殿勝手台所井戸跡

二の丸側から天守を見上げています。天守丸と、その手前の帯曲輪の土塀には三角・四角の多数の狭間が作られているのが判ります。

本丸の東側を守る十露盤堀そろばんぼり

三日月堀。深さ8mの堀です。
奥に見える土塀は最初に上った四足門前の階段です。

二の丸御殿

次は二の丸御殿へ。掛川城の最初の二の丸御殿は宝永の大地震後(二の丸と三の丸が入れ替えられた後)に建てられたと思われますが、安政元年(1854年)の地震で倒壊してしまいました。同時に被災・倒壊した天守は江戸時代中には再建されませんでしたが、二の丸御殿は文久元年(1861年)に再建され、現在まで残っています。江戸時代の御殿が現存するのは全国にわずか4箇所という非常に貴重なものです(掛川城の他は川越城・高知城・二条城)。国の重要文化財に指定されています。

大きく張りだした二の丸御殿の玄関。玄関の土間を上がったところが広間で、現在は見学受け付けなどがあります。

受付で100名城スタンプゲット…したのですが、スタンプの状態が恐ろしく悪く、派手に滲んでしまいましたOrz
僕より受付の人たちの方が慌てていた(スタンプの状態が悪いのにその時初めて気付いた様子だった)ので、たぶんその日、僕の直前に押した人が、スタンプ帳が濡れていたのに構わず押してしまったんじゃないかな…。

広間から建物外周の廊下を回っていきます。
最初は三の間。城主や家老に用件のあるものが通される部屋です。

次の間。城主と直接謁見できる、比較的身分の高い人が通される部屋です。写真右手は三の間に続き、正面の襖の向こうは御書院上の間です。

御書院上の間(大書院)。床や違い棚を備えた書院造りの部屋で、城主の仕事場です。

御殿南西隅の廊下より。手前の角の部屋が次の間、右手奥が三の間、左手奥が御書院上の間です。

小書院こしょいん。城主が寛ぐためのプライベートルームです。

小書院に隣接する小さな部屋(といっても拙宅のリビングより広いけど)は、城主や奥方の世話・護衛をする役人が控える次の間です。

長囲炉裏の間。城主または奥方が使用した部屋です。

長囲炉裏の間の天井には、二の丸御殿再建時の城主・太田氏の家紋である太田桔梗違い鏑矢が刻まれています。

徒目付かちめつけ部屋かちとは下級武士の一種で、それを監督する役(目付)が使用した部屋です。

張役所はりやくしょ。御殿内の警備を担当する役人の部屋です。いろいろ展示されています。掛川城をとりあげたテレビ番組の出演者などのサイン色紙が飾られていました。

御談の間。藩へ用事のあるものの取り次ぎや談合などの埵目の部屋です。現在はいろいろなものが展示されています。照明が暗くて見づらいですが…。

掛川城本丸・天守丸のジオラマがありました。

廊下には発掘調査で出土した瓦などが展示されています。

展示されている武具は出土品ではなく寄贈品だそうです。

おまけ

掛川城周辺の建物は、商店・民家・マンションらしきものまですべて白壁と黒瓦で統一され、城下町のような景観になっています。

データとまとめ

天気が悪く光量が不足して全体的に写真がぶれ気味になってしまったのが残念Orz

Webサイト掛川城公式サイト
Google Map掛川城
アクセスJR掛川駅より徒歩10分
100名城スタンプ二の丸御殿受付
開館時間天守・二の丸御殿:09:00~17:00(最終入場16:30)
休館日年中無休
入場料天守・二の丸御殿:大人410円、小c宇不学生150円
※二の丸美術館、ステンドグラス美術館とのセット券あり

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