松坂城 その1

旅行10日目(最終日)!
まずは松坂城とその周辺施設を見学します。

松坂城について

城址公園入口の案内図

歴史

松坂城は蒲生氏郷が天正16年(1588年)に築城しました。しかし完成間のない天正18年(1560年)に氏郷は陸奥黒川城(福島の会津若松)に転封となり、その後服部一忠、古田重勝が城主となり、関ヶ原の戦いの後に重勝が病死すると弟の重治が松坂藩主・城主となります。元和5年(1619年)に古田氏が石見(島根県の西部)に転封となり、松坂藩は廃藩。紀州徳川氏の藩領となって城代が置かれるようになりました。
天保元年(1644年)に台風で天守が倒壊し、その後再建はされませんでした。
明治時代に廃城になった後は建物が順次取り壊され、現在は石垣のみが残っています。

構造・現状

上下二段になった本丸の南側と東側を二の丸で守る梯郭式の平山城です。

現在は二の丸・本丸・きたい丸が松阪公園として保存されている他、隠居丸には本居宣長旧邸が保存されて本居宣長資料館屋外展示として公開されています。また三の丸の御城番屋敷は江戸末期の武家の組屋敷がそのまま残り、今でも紀州藩家臣の子孫が生活しています。

各曲輪が完全な形で残っているため、城の構造は非常に良く判ります。天守他の建築物はすべて破却されてしまいましたが、蒲生氏時代以来の石垣はとても立派!

なお、本来の表記は『松城』ですが、現在の地名は『松市』で、城址公園の名称も『松公園』です。ただし国史跡としての名称は『松城跡』で、現地の案内図にも『松』と『松』の両方の表記が見られます。

いざ登城

松阪駅近くに宿泊していた&松阪公園は入場自由なので、朝から徒歩で登城です。

松阪駅前ロータリー中央にあるこのオブジェは、本居宣長(松阪出身)の遺品である驛鈴を象ったものだそうです。驛鈴は駅鈴とも書き、古代律令時代に官吏が出張する際に朝廷から支給されたもので、これによって駅馬(主要道沿いに設置された『駅家』で供される馬)の徴発が行えるというものでした。交通機関のパスポートのようなものでしょうか。
本居宣長は鈴を収集しており、石見浜田藩主・松平康定から『源氏物語』講釈の礼として駅鈴のレプリカを贈られたのです。ちなみにオリジナルは隠岐の神社に保存されています。

駅から松阪城に向かう途中にこんなものがありました。本居宣長をモデルにしたからくり人形らしいのですが、残念ながら故障中?で現在は動かしていないとのこと。どういう動作をするのか見たかったです。

松阪市役所。このあたりに松阪城の大手門があったそうです。道が微妙にS字型に曲がっているのは枡形の名残でしょうか(道の様子がわかるように石垣の上から撮った写真が後にあります)。

表門

表門に到着。すぐ坂が左右に分かれていますが、右に進むと松阪市立歴史民俗資料館、左に進むと二の丸へ行けます。

表門を入ってすぐ右手には、築城当時から残る井戸があります。

資料館はまだ開館時間前なので、次は二の丸の方面へ上ります。

二の丸へ登る坂の途中から、本丸下段の石垣を見上げるとこんな感じ。古いタイプの野面積みながら高さもあり、非常に重厚な感じ。

石積の様子はこんな感じ。不定形の石をキッチリと詰め込んでいます。

二の丸

二の丸へ到着。
売店、休憩所、藤棚などがあります。が、売店は僕が言ったときは営業時間外でした(まぁ朝8時だし…)

二の丸にある徳川陣跡。奥には野外劇場があります。

二の丸にある藤棚。さすがに季節外れですが…。
愛知県にあったものを明治時代に株分けしてきたのだそうです。株分けの時点で樹齢200年、いまでは樹齢300年以上!

二の丸にある亀井改堂顕彰碑。亀井改堂は明治時代の漢学者だそうですが何が書いてあるのかは…うっすら漢文のようなものは見えるのですが読めず。

裏門

裏門跡(二の丸の外に出て撮影)。
写真右奥が二の丸、裏門を出るとすぐ御城番屋敷です。

中御門

二の丸から本丸下段へ向かう途中、中御門のすぐ手前には本居宣長旧宅(隠居丸)に続く門があるのですが、入場する場合は城の裏手にある本居宣長記念館でチケットを買うようにとの掲示があります。

二の丸と本丸下段をつなぐ中御門
右手の石垣の上には太鼓櫓があったそうです。

ここを登れば本丸下段です。

本丸下段

僕が行ったときは営業時間外だったようですが、ここにも売店があります。

本丸下段の石垣の上より市役所付近を見下ろすとこんな感じ。市役所前の道がS字型に曲がっているのがわかります。たぶん枡形の名残だとおもうのですが確認できず。

月見櫓

本丸下段の南東隅にある月見櫓

月見櫓跡には梶井基次郎文学碑があります。
この地に滞在していたときに着想を得たとされる『城のある町にて』の一節が刻まれています。昭和49年建立。

遠見櫓

遠見櫓
中央にあるのは、大正6年に建立された大林省軒顕彰碑だそうです。大林省軒は幕末の学者だそうです。

遠見櫓付近からは歴史民俗資料館を見下ろせます。

石垣から下を覗くとこんな感じ。落ちたら高確率で命を落としそうな高さですが、『石垣注意』という看板だけで柵もロープもなにもありません。

月見櫓・遠見櫓・太鼓櫓の間は多門櫓で接続されていたものと思います。残っている石垣からして人一人が通る幅の廊下だけの櫓だと思いますが。

本丸上段

本丸上段に登ってきました。
ここは売店などはありません。

天守台

本丸上段西側には3層望楼型の天守がありましたが、天保元年に台風で倒壊。以来再建されないままです。

天守台の上はこんなかんじ。

敵見櫓

天守台に隣接して、一段低く敵見櫓がありました。
天守と接続して連立式天守を構成していたものと思われます。

むしろ天守より敵見櫓の方が床面積が広そうに見えます。

金の間櫓

本丸上段の東側、だいたい天守の対角となるあたりは金の間櫓という二重の櫓がありました。その名の通り、金箔を貼った部屋(金の間)があったそうです。

金の間櫓跡から見る本丸上段全景。
本丸上段をぐるっと半周するように金の間櫓から天守台まで多門櫓が続いていたようです。

金の間櫓跡には松阪開府之碑があります。

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