要害山城 その1

続100名城登城33城目は、山梨県甲府市の要害山城(128番)です。

登城口の案内パネルより

要害山城について

歴史

要害山城は、永正17年(1520年)、武田信玄の父・武田信虎たけだ のぶとらによって築かれました。信虎は自らの本拠地を躑躅ヶ崎館に移しており、その詰城として背後の山上に砦などをを築いたのが始まりです。信虎の正室・多い夫人は、この要害山城中で嫡子晴信(信玄)を出産しています。

武田信玄の時代になっても、躑躅ヶ崎館と要害山城は武田氏の本拠地として機能していましたが、さらに代が変わって武田勝頼は、天正9年(1581年)に新たに新府城の築城を開始、躑躅ヶ崎館・要害山城から本拠地を新府城へ移転します。しかし翌天正10年(1582年)、織田軍の侵攻と相次ぐ家臣の離反に、勝頼は未完成の新府城を捨てて脱出しますが逃亡の途上に自害、武田氏は滅亡してしまいます。

その後、要害山城は徳川や豊臣に縁のある大名が入場し、しばらくは修繕・維持されていましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に廃城となりました。

構造

要害山城は、躑躅ヶ崎館の背後にそびえる標高780mの要害山の中腹から山上にかけて築かれた山城です。山の南側斜面に階段状に曲輪が並び、山頂付近に本丸が築かれています。

見学ガイド

要害山は標高780mですが、最寄りバス停『積翠寺』が標高480m、タクシーでアクセスできる登山口が標高560mくらいの位置なので、自分の脚で上らなければならない高さは220~300mほどです。

曲輪などには簡単な説明が書かれた立て札などが設置されています。建物や門などの復元はありませんが、門や堀切などを補強した石積や、諏訪水の名で知られる井戸跡が観られます。また城時代よりずっと新しいものですが、途上途中の不動曲輪には不動明王像、本丸には『武田信玄公生誕の地』の碑があります。登城道は整備されていますが基本的に山道なので、履き物はそれなりのものを準備していく必要があります。

『積翠寺』まで行くバスは1日に3往復しかありません(2023年5月現在)。往路は甲府駅前からタクシーで登城口まで行ってしまうのがオススメです。タクシーの片道運賃は2,200円前後です。

積翠寺バス停から要害山城登城口までの徒歩ルート例はこちら

自宅から国立国会図書館所蔵の『日本城郭大系』を参照できると気付いたので、今回からそちらの情報も参照しながら書いていきます。

いざ登城

今回は日帰りで、武田信玄・勝頼ゆかりの要害山城と新府城の2城を回る予定です。GWの超混雑の時期だというのに準備に出遅れてホテルが取れませんでした(笑)

まずはJR甲府駅北口広場にある藤村記念館ふじむらきねんかんで、要害山城の続100名城スタンプと現地の地図などを貰いました。現地には地図・パンフレットがないので、ここでパンフレットを貰っていかないと自分がどこにいるか判らなくなります。

この藤村記念館自体も歴史的建築物で内部見学ができますので、時間があればぜひ。なお、小諸城跡にも『藤村記念館』がありますが、あちらは詩人の島崎藤村を顕彰する施設で『とうそんきねんかん』、甲府駅前にあるのは山梨県令(県令とは現在の知事にあたる役職)だった藤村紫朗にちなんだもので『ふじむらきねんかん』で、漢字は同じでも読み方が違います。…って、ずっと前の記事にも書きましたっけ_?

要害山城の登城口はこちら。登城口付近は標高560mくらい、山頂の主郭は標高780mの山頂付近なので、ここから220mの上りです。そこそこ脚力のある人なら、まっすぐ本丸を目指せば40分程度の上りです。僕は写真を撮ったり脇道に逸れたりしながら1時間以上かけますが…。

登城口は知らないとちょっと判りにくいです。初見だとそれが道だとすら認識できないかも…GoogleMapにも道としては表示されません。

今回は駅前からタクシーでここまで移動してしまいました。タクシーで行き先を言うとき、『要害山城』では通じないことがあるので、『積翠寺音泉せきすいじおんせん・ホテル要害ようがい』と言うといいそうです(藤村記念館で教えてもらいました)。駅からの運賃は2,200円ほどでした。奥に見える建物が『ホテル要害』です。ホテルとしての営業は2017年に終了し、現在は改装されて福祉施設になっています。

登城道~不動曲輪まで

登山口の案内パネルより

登城ルートはこのとおり。段差や門・曲輪の配置が一切描かれていない上に枝道の表記も判りにくいですが…。

まだ上り始めてほんの数分ですが、下を見ると既にけっこうな高さが…。樹木(アカマツらしい)が密に生えていて見通しが利きません。

登城路のあちこちで、このような石積が見られます。まぁこれらの石積がすべて武田時代のものかというと、ちょっとそれも怪しい気もします。

こちらも人工的な石積に見えますね。石垣というよりは斜面が崩れるのを防ぐための押さえのような漢字ですが。

ここから先は、甲府市公式サイト内の説明地図も参照しながらいきます。

竪堀と土塁

説明地図(1)の竪堀です。草が多くて見づらいですが、たしかに人間がすっぽりはまってしまうほどの大きさの溝が斜面下に向かって真っ直ぐ伸びています。

(1)の竪堀の位置のすぐ先には、説明地図(2)の土塁があります。登城路は土塁にあたって直角に右に曲がります。

門跡

竪堀(1)・土塁(2)のあと、しばらく上っていくと説明地図(3)の門跡へ至ります。

ここは(3)門跡より少し手前、『日本城郭大系』で『第1の門跡』と記されているあたり、だと思います。よく観ると少し道がくびれて細くなっているあたりに石積の跡があるような…。

説明地図(3)の門跡、『日本城郭大系』では『第2の門跡』です。土塁がU字型に切れているような形状ですが、元々の地形を削ったのか両側に土を盛ったのか…。両側の壁には石積が見られます。周辺に数多くの散乱する石は、積んであったものが崩れた跡でしょうか。石敷きの通路ということはなさそうに思うので…

門跡(3)を抜けた先は、やや広い空間になっています。登城路は奥の突き当たりで再び右に直角に折れて続いており、全体として枡形のような構造になっています。『日本城郭大系』第8巻の要害山城の図面では、ここは『武者溜』と表現されています

登城路右手には小ぶりな曲輪(説明地図(4))があります。門を守る番所のような役割があったのでしょうか?

不動曲輪

また少し上ると、右手に不動曲輪(説明地図(5))があります。

『不動曲輪』の名は武田時代のものではなく、江戸時代後期にこの場所に祀られた不動尊に由来すると言われています。不動尊は武田信玄に見立てられ、武田不動と呼ばれています。

現在ある不動明王像は、江戸時代後期どころかもっとずっと新しいもののようにみえますね。ナンチャッテ3D写真化(並行法)してみました。

長くなってきたので記事を分けます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました