高天神城 その1

続100名城登城30城目は、静岡県の高天神城です。

高天神城について

歴史

高天神城の築城時期は不明ですが、判明している最も古い城主は今川氏の家臣の福島左衛門尉助春で、16世紀初頭のことでした。その後福島氏が没落したため、今川の家臣となった小笠原氏が城代となりました。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討死したことで今川は弱体化、永禄12(1569年)に武田・徳川による駿河侵攻がはじまると、当時の城主・小笠原氏興は徳川の家臣となり、高天神城は徳川の勢力下となりました。

徳川と武田が敵対するようになると、高天神城はたびたび武田からの攻撃に晒されることになります。元亀2年(1571年)、武田信玄が高天神城を2万5千の軍で攻めますが、高天神城は2000人が籠城し、このときは攻撃をしのいでいます。

信玄の死後、天正2年(1574年)に武田勝頼が2万の軍で高天神城を攻撃。織田・徳川には援軍を出す余裕がなく、とうとう城主・小笠原氏助は開城、武田に臣従します。高天神城は武田方の勢力下となり、この時期に勝頼は高天神城の縄張りを西峰にまで広げています。

天正8年(1580年)、徳川家康は高天神城を攻撃しました。今度は天正2年とは逆に勝頼に援軍を送る余力が無く、兵糧攻めの末、翌天正9年(1581年)に城主・岡部元信らが城から討って出ますが逆転は適わず、高天神城は落城します。このとき、武田家家臣の横田尹松よこた ただとしは城から尾根伝いに脱出、勝頼の元までたどり着いています。

この後、高天神城は廃城となりました。

構造

高天神城は、現在の掛川市にある標高132mの山上(高天神山)に築かれた山城です。『h』のような形状の尾根に沿って、東峰に本丸・三の丸、西峰に西の丸・二の丸・道の尾曲輪などがだいたい一列に並んで配置されています。連額式の一種といっていいでしょう。山は比高100m程度とそれほど高くはないですが、傾斜の急な部分が多く、攻めにくい地形となっています。

見学ガイド

全体が城址として整備され、比較的見学しやすい山城です。特に搦手側から井戸曲輪までは舗装された階段が作られ、安全に上ることができます。各曲輪もよく整備され、案内板も設置されていて、構造も判り易くなっています。

城としての建物の現存・復元はありません。『城』としての歴史的価値はありませんが、本丸には昭和初期に作られた模擬天守のコンクリート製の土台が残っています。

いざ登城

まず掛川駅前のバス停です。高天神城は掛川駅の南にありますが、バス停は北口ロータリーの3番または4番バス停から発車します。『大東浜岡線』です。

高天神城はJR掛川駅からバスで20分ほどの 土方ひじかた バス停(GoogleMap)が最寄りです。往路はいいのですが、復路のバス停が判りにくいので周辺の様子を。写真中央付近、撮影位置とは道路の向かい側が掛川駅から来たバスの降車停留所です。城があるのはこの写真の左側です。

土方バス停の近くには山王神社があります。高天神城の追手門方面へは、バス停から神社の前を通り過ぎた先(写真手前方向)から入ります。

搦手側・大手側のどちら側からでも上れますが、今回は搦手側(写真の奥側)から上って大手側に降りる予定です。バス停から搦手門までのコースはこちら

搦手門の前には広い駐車場とトイレがあります。バス停からここまで15~20分くらいでした。

登城口近くには高天神城全体図がありましたが…

…おいポスター貼る場所考えろや…

搦手門登城路

上り始めてすぐ、赤堀磯平師顕彰碑があります。赤堀磯平は高天神城とは直接関係ないのですが、1887年に高天神南麓に生まれ、静岡県内茶葉の発展に尽力した人物だそうです。

高天神城は標高132mの山上に築かれた山城で、東峰に本丸と三の丸、西峰に西の丸と二の丸、二つの峰を結ぶ鞍部に井戸曲輪を配置しています。バス停付近からの比高は100mほどあります。
赤字で『現在地』と書かれているのが搦手口で、今回の見学では城内各曲輪を回った後、右下の追手口から下山する予定です。

高天井登城口(搦手)。山頂に高天神社があるためか鳥居が構えられています。

しばらくは舗装された坂道を上っていきます。

けっこう急な階段ではありますが、搦手側は高天神社の参道にあたるため、井戸曲輪(鞍部)までこのような舗装された道が続きます。おかげで安全に登城できます。階段の段差も現代的なサイズなので、(城によくある)やたら段差が高かったり一様では無かったりする階段に較べて非常に上りやすいです。

階段の途中、三ヶ月井戸。浅い水たまりにしか見えないのですが、どこかから水が湧いているんでしょうか。

井戸曲輪

井戸曲輪まで上ってきました。ここは東西の峰を結ぶ鞍部にあたり、平坦な部分が続いています。

まずは高天神社のある西峰方面へむかいます。高天神城は菅原道真を祀った神社なので、上の写真の奥にある狛犬のように向かいあった像も犬ではなく牛です。

井戸曲輪にある『かな井戸』。神社への上り口のすぐ前にあります。山城ではこのような水源がないと長期間の籠城ができませんが、なぜこんな山中でなぜ水が湧くのか不思議です。

水面は…見えませんね…。

『かな』の名は、水に鉄分が多く含まれているから…ということらしいのですが、飲むと鉄臭かったりするのでしょうか。確かめることはできませんが。

こちらは尾白稲荷です。

高天神城落城の後のこと。城山山中で弓の名人が白い尾の狐を射止めた。その名人とは、実は元城主の小笠原信興の叔父に当たる小笠原氏義義頼)で、いまは武士を辞め農民として暮らしていたのであった。それを知った家康は、氏義に『尾白』の姓を与えた…。

という話が残っているのだそうです。この尾白稲荷は、後の時代に氏義の子孫たちが先祖を祀るために建立したのだとか。

この尾白稲荷の横から、二の丸や道の尾曲輪方面へ行けるのですが、それは後ほど。

西峰

西の丸(高天神社)

高天神社本殿へ昇る階段の途中、ここからが西の丸のようです。階段左手には社務所があります。

階段右手、社務所の向かいは手水舎ですが…なぜか『日露戦役紀念 旅順要塞防備ニ使用セシ露軍砲弾』と書かれた立て札があります。その砲弾とやらは見当たらないのですが…。手水舎の奥にも『日露戦役紀念』とかかれた碑があります。このあたりから日露戦争に出征したひとが多いのでしょうか。

高天神社本殿。祀られているのは高皇産霊命、天菩比命、そして菅原道真です。
高天神城の守護のための神社でしたが、廃城後も山上に残されて地元の人々に信仰されてきました。

馬場平

神社の脇(前の写真の左手)を抜けていくと、堀切を経て馬場平へ行くことができます。

馬場平です。『馬場』というと馬の訓練場のことかと思ってしまいますが、高い山の上の狭い土地で、とても馬を飼っていたとは思えないことから『番塲(見張台)』の当て字ではないかと考えられているそうです。

写真奥に写っている東屋付近からは細い道がのびているのですが、これは天正9年(1581年)に徳川家康の攻撃によって高天神城が落城する際、武田方の武将・横田尹松よこた たたとしが脱出に使った道です。尹松の幼名から『甚五郎抜け道』、または『犬戻り猿戻り』と呼ばれています…『犬や猿でさえ通り抜けを諦めるほどの険しい道』という意味でしょうか。尹松は尾根伝いに脱出し、甲斐の武田勝頼のもとへたどり着いて高天神城落城を報告したと言われています。

振り返ると西曲輪の崖が見えます。高天神城のある小笠山はそれほど高い山ではありませんが、いたるところがこのような崖になっており、城の規模のわりに攻略が難しかったといわれています。

二の丸

井戸曲輪まで戻り、尾白稲荷の脇から二の丸方面へむかう細い通路を進みます。左の斜面の上は西の丸です。

二の丸は細長い曲輪です。写真だと判りにくいですが、奥に向かって上っていくように傾斜しています。もとは三段になっていたそうです。それぞれの段から柱穴や礎石が見つかり、また落城の際に火を放たれたと思われる火災の痕跡を残す礎石もあるそうです。

二の丸の縁には、このようにところどころ土塁の痕跡がみられます。

袖曲輪

西峰、二の丸の『付け根』から北に向かって伸びる尾根には袖曲輪堂の尾どうのお曲輪井楼せいろう曲輪が配置されています。このあたりは構造が複雑・そして面白いので、別に図が用意されていました。青い矢印が想定される攻め手側の進路、赤い矢印がそれに対する守り手側の射線などですね。

やや傾斜の緩い西側の斜面を登ってきた攻め手に対して、守り手は堂の尾曲輪・井楼曲輪・袖曲輪・二の丸の上から迎撃します。万が一いずれかの曲輪が敵に占領されても、曲輪の間は堀切によって分断されているため城中心方向へむかう移動は難しく、井戸曲輪へ続く細い通路の入口までたどり着いても西の丸の上から攻撃される、という構造です。

二の丸の『付け根』の北側にある袖曲輪。ここから北に向かって伸びる尾根に、堂の尾どうのお曲輪・井楼せいろう曲輪が配置されています。このあたりは武田勝頼によって拡張された領域です。西峰には他と較べてやや傾斜の緩い部分があるので、曲輪・堀切・横堀を整備して防備を固めています。

堂の尾曲輪

袖曲輪の一段下、上の図面で『現在地』となっているあたりから北に向かって撮影しています。

右前方には堂の尾曲輪、その手前には堂の尾曲輪と袖曲輪を区切る堀切、左寄りに奥に向かって横堀と土塁が伸びています。

VR写真の方が固定写真より南に数m下がって撮影しています。VR写真には周囲に『本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清の戦死の址』や『天正2年の戦いでの戦死者碑』などが写っています。

袖曲輪と堂の尾曲輪を区切る堀切。よくみるとここから堂の尾曲輪に登れるようになっています。

堂の尾曲輪の上に登ってきました。南北に細長い曲輪の北を向いて撮影しています。左側が盛り上がっているのは土塁跡で、左の斜面下には横堀と土塁があります。

このあたりの構造を判り易く表した図がありました。堂の尾曲輪や井楼曲輪の上から、並行して走る横堀の敵を攻撃するようになっています。

だいたい同じ位置の斜面下、横堀と土塁です。これも先ほどの堂の尾曲輪と同じく北を向いて撮影しています。右手の斜面上が堂の尾曲輪です。右寄りにある横堀はもっと深かったのだろうと思います。

井楼曲輪

堂の尾曲輪と井楼曲輪を区切る堀切。堂の尾曲輪側から見ています。

ここ以外に井楼曲輪に移動する場所がなさそうなんですが、なかなか深い堀切で本当にむこうに渡れるのかな…?井楼曲輪内に説明看板っぽいものが見えるので、登れるのは間違いないんですが…。

なお、城だった頃には、井楼曲輪と堂の尾曲輪の間や、堂の尾曲輪と袖曲輪の間には橋が架けられていたと思われます。万が一敵が侵入した場合は橋を落とせる構造になっていたのかもしれません。

地面の状態はよさそうだったので、なんとか堀切を超えて井楼曲輪に移動しました。井楼曲輪も堂の尾曲輪と同様南北に細長く、西側(左手)に土塁があります。

西峰の尾根北端に位置する曲輪ですが、その最北端は西側だけではなく三方が土塁に囲まれています。そのコの字型の土塁に囲まれた場所からは柱跡が発見されており、名前の通り『井楼(見張り櫓)』が立っていたと考えられています。

長くなってきたので記事を分けます。

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