浪岡城

旅行4日目は、まず青森県青森市内にある浪岡城なみおかじょうの見学です。続100名城登城27城目です。

現地案内板の全体図

浪岡城について

歴史

浪岡城は北畠氏の居城でした。築城時期については長禄(1457~1460)または応仁(1467~1469)の頃といわれていますがはっきり確定していません。築城主の北畠顕義きたばたけ あきよし浪岡なみおか顕義ともいい、その一族・浪岡北畠氏は応仁年間以降、戦国時代前期に津軽地方に影響力を持っていました。が、この家系自体にも、有力とされる『鎌倉時代末期に鎮守府将軍として陸奥に下向した北畠顕家きたばたけ あきいえ(後醍醐天皇の側近として有名な北畠親房の子)の子孫である』という説の他、『藤原秀衡ふじわら ひでひらの子が奥州藤原氏滅亡時にこの地に逃れてきたのがはじまりである』という伝承があり、出自がはっきりしません。残されている系図が数代に渡って名が不明であったり、系図毎に人名が異なっていたりと、系譜を決定できるような資料がないようです。

16世紀半ば頃、浪岡北畠氏は内紛によって勢力が衰えてしまいます。それに代わって津軽地方で勢力を伸ばしたのが大浦為信おおうら ためのぶ津軽つがる為信)です。天正6年(1578年)に為信は浪岡城への攻撃を開始します。為信は浪岡の有力家臣と内通して情報を得、また2人の忍びの者を城内に潜入させて放火などの騒動を起こさせて攪乱。城中の混乱に乗じて三方から攻め寄せる為信の軍勢に浪岡城は持ちこたえられずあっさり落城してしまいました。この時の城主である浪岡顕村は捕らえられて自害したとも、安東氏を頼って落ち延び、慶長時代まで生きたともいわれています。

浪岡城はこの落城後すぐ廃城となったわけではなく、その後天正13年(1585年)に為信が拠点として使ったといわれていますが、その後の浪岡城については資料も少なく、よく判らないようです。

構造

浪岡城は浪岡川の北岸に築かれた平城です。浪岡川を背後に中心となる内館うちだてを築き、川のある南側以外の三方は西側に西館にしだて・北側に北館きただて・東側に猿楽館さるがくだてで囲み、さらにその外側は西側に検校館けんぎょうだて・北側に外郭(無名の曲輪)・東側に東館ひがしだてと、内舘を二重に囲むように曲輪が配置されています。東館のさらに東には新館しんだてがあり、合計8つの曲輪で構成されています。

各曲輪の間は堀で区切られています。土塁の多くの箇所が中土塁を挟んだ二重堀になっているのは、浪岡城の大きな特徴です。

見学ガイド

『構造』の項で挙げた8つの曲輪のうち、外郭を除いた部分が公園として整備されています(外郭は車道で分断され北側は市街地として開発されています)。城内も大きな上り下りはなく、見学路が整備されて散歩気分でも一回りすることができます。

JR浪岡駅より徒歩20分ほどでアクセス可能です。駅からの道も平坦でほとんど上り下りがないため、体力的には楽です。また青森駅付近からアクセスする場合、本数は少ないですが青森駅前発・空港経由浪岡駅行きのバスが東館近くに停車します。

いざ登城

今回浪岡城へは、現地に最も早い時刻に到着できる青森駅前発・青森空港経由浪岡駅行きのバスを利用しました。乗車時間は45分ほど、料金は2022年9月現在870円です。ありがたいことに青森市内のバスはSUICA、PASMOなどの交通系ICカードの相互利用が可能です。

ただ残念なことに本数が非常に少なく、2022年9月現在は7時台・13時台・18時台に1本ずつしかありません。今回は第1便、7時台に青森駅前を出発しました。早起き必須ですが1日が有効に使えます…。

途中、青森空港付近を通過した際は霧が出ていました。飛行機飛べてたのかな。

西日本から東海にかけて甚大な被害を及ぼした台風が接近しています。とはいえ天気予報によると青森県への接近は明日以降のはずで、青森市内ではまだ風も雨もありません。

バスは予定通り『浪岡城跡前』に到着。バス停は東館側の入口近くです。

まずはもっとも東側にある新舘。広大な平面が残っていますが建物などの復元はなし。周囲を囲む土塁や堀などの痕跡もはっきりしません。

近くに案内図がありました。本記事冒頭の図とは上下が逆で北が下なんですが、バス通り側から入る場合はこの方が判りやすいかもしれません。この図だと無名の曲輪が道路で分断され、現在は一部しか残っていないことが判ります。

この図では曲輪と曲輪の間が幅広い堀で区切られていることがよく判ります。堀の中央を走る細い部分が中土塁で、城中の通路として使われたと考えられています。現在も見学コース(図中の赤線)は一部中曲輪を経由するように設定されています。

それでは、新館と東館の間(現在は車道になっています)を通って案内所まで行き、そこから見学コースに沿って歩いてみようと思います。

案内所

案内所に到着。続100名城スタンプはこちら。案内所には浪岡城城内で数少ない公衆トイレの1つがありますが(もう1つ検校館の奥にあるようです)、案内所の開館時間内しか使用できないのでご注意を…(じつは開館時間前に急に催してしまっていてちょっと危なかったw)

案内所の中には簡単な展示があります。展示室というよりは休憩所にちょっと展示がある、という感じの展示ボリュームですが。

案内所内にあった浪岡城の立体模型です。大まかにですが、曲輪と堀・中土塁の高さの関係が判ると思います。また案内所がある位置は曲輪より少々低くなっていることも判ります。

案内所の裏手から見学コーススタートです。

左手にある二つの石碑には『行岳公園』『御大典記念公園』とあります。『行岳』は、これで『なみおか』と読み『浪岡』の別表記(古い書き方)です。『御大典ごたいてん』とは『天皇の即位の礼』のことで、この碑は大正天皇即位を記念して建立されたものだそうです。

猿楽館~東館~中土塁

歩き始めてすぐ、正面に見えるのは猿楽館さるがくだてです。その名の通り猿楽(能)堂があったとも言われていますが現在は中を見られません(立ち入り禁止というわけでもないようですが草木に阻まれて登れません…)。

さらに進むと東館ひがしだて虎口です。枡形のような構造はなく、曲輪の縁に沿った坂を登って入る構造(坂虎口)です。塀と門くらいはあったのかな?

東館。建物の復元はありません。東館は東側の辺が車道と接しているため、先ほど降りたバス停側からも直接はいることができます。

東館には浪岡城の全体図があります。こちらは新舘にあったものと違い、一般的な地図と同じように北が上ですね。

手前に木橋、奥右寄りにもう1つ木橋があります。今立っているのが東館、1つ目の木橋を渡った先は東館と北館の間の中土塁なかどるい、2つ目の木橋を渡った先は北館の北側の中土塁、左奥が北館です。

東館と北館の間の中土塁の北端から、初期方向は南方を観ています。この中土塁によって幅の広い水堀が分割され、二重の堀になっています。

中土塁は平時には通路として使用され、戦時には敵兵がこの上を歩くと両側の曲輪から挟撃される…という構造だったようです。中土塁は北館の周りを一周しているように見えて、途中数カ所途切れています。これも有事に敵に自由に動かれないための工夫でしょうか。

北館

北側の中土塁から木橋を渡って北館きただてに入ります。ここの堀は草で埋めつくされて底が見えません。

北館虎口。北館は家臣の屋敷などがあった曲輪とされ、7つの曲輪の中でもっとも面積が大きいです。
特徴的なのは木の塀で囲まれた立体迷路のような通路です(実際には板塀かどうかは判っていないそうです)。塀で囲まれた各区画には建物跡が平面表示されています。

全体を俯瞰するとこんな感じ。そこまで複雑な迷路というわけではないのですが、人間の背だと見通しが悪く、攻めるのが難しい構造です。

各区画の入口も、単に塀が途切れているだけではなく、このように折れ曲がった塀で内部が見通せないようになっています。

北館内は、このように建物が平面表示されています。建物の型式は掘立柱建物で大きさは6×4間あります。この区画では大きめのものです。家臣の屋敷か、それとも倉庫でしょうか。

こちらは竪穴建物でしょうか。穴内部が板で補強されているのが判ります。。小型の建物はこのような型式になっているものもあります。

井戸跡。浪岡城には非常に井戸が多く、北館で復元されているだけで5個以上ありました。

北館の周囲はこのように土塁で囲まれています。さらにこの上に塀などが築かれて護りを固めていたようです。

北館北側にあるもう1つの虎口。車道(もとは外郭/無名の曲輪)から撮影しています。先ほど東曲輪ちかくの中土塁から渡った木橋は中土塁と北館の間だけでしたが、こちらは無名の曲輪(右手前)~中土塁~北館(左奥)を結んでいます。中土塁によって堀が二重堀になっている様子もよく判ります。

なお、現在の堀は埋まってごく浅くなっていますが、かつては現在より2~3m深いかったそうです。

北館西側の虎口を外側から撮影。ここには枡形?のような構造が見えます。また他の虎口と違って段差があり、出入りがしにくい構造です。

1つ前の写真とほぼ同じ場所、北館と中土塁を結ぶ木橋の上からです。初期方向正面に北館西側の虎口、右手には北館の西館の間の堀が見えます。幅の広い堀で、中ほどに中土塁があります。振り返ると中土塁の向こうに西館が見えます。この中土塁を通って内舘・西館の虎口へ向かうルートが設定されています。

西館

見学ルートは、北館と西館の間の中土塁を進むように設定されています。

先ほどの中土塁を進んでいくと、右手に西館にしだてに渡る木橋があります。

西館は中土塁より2m程度高くなっています。虎口は東館のような曲輪の縁に沿った坂ではなく、すり鉢状になっています。枡形のような構造があったのでしょうか?

西館は北館に次いで広いのかな?こちらには建物の復元はありません。

内舘

中土塁に戻り、さらに進んでいきます。

今立っているのは内舘と西館の間の中土塁、初期方向左手に内舘、右手に中館があります。前方左手には内舘に渡る木橋、振り返ると西館に渡る木橋があります。西館に渡る木橋の先、左手に折れて進むと北館西側虎口に至ります。

内舘うちだて虎口。東館と同じく、曲輪の縁に沿った坂を登って入る型式です。

内舘には城主の館があり、一般的な城では本丸に相当する最重要の曲輪です。建物復元はなく、広場になっています。

内舘に石碑がありました。『北畠古城跡碑』と刻まれています。北畠とは浪岡城の城主一族の名ですね。

内舘の南側には外に出られる舗装された坂があります。復元図にはここに虎口・通路は描かれていないので、元々の出入口ではないのかもしれません。ここを下りて左手に進むと案内所に戻ります。

これで見学ルートは一周しました。

検校館

一番西側にある曲輪・検校館は、城内の見学ルートからは直接接続していませんが、車道(県道27号線)に出て少し歩いた所から中に入って見学することができます。

検校館の前を通り過ぎてそのまま車道を進んでいくと『青森中世の館(歴史博物館)』があります。

データ

Webサイト青森市公式サイト内の紹介ページ
地図GoogleMap
アクセス・JR浪岡駅より徒歩20分
・JR浪岡駅よりバス『空港経由青森行き』乗車、『浪岡城跡前』下車すぐ
・JR青森駅よりバス『空港経由浪岡駅行き』乗車、『浪岡城跡前』下車すぐ
続100名城スタンプ青森中世の館(歴史博物館、浪岡城北館虎口より徒歩10分ほど)
開館時刻城址は見学随時
案内所は09:00~16:00
休館日城址は見学随時
案内所は月曜、毎月第3日曜、年末年始
入場料案内所も含め入場無料
備考・トイレは案内所、検校館(案内所開館中しか使えない)
・案内所前に駐車場あり
・飲料自販機なし

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