上ノ国勝山館

旅行2日目は続100名城登城26城目、上ノ国勝山館かみのくに かつやまだてです。

現地案内板より

上ノ国勝山館について

歴史

15世紀中頃、道南十二館があったころ、上ノ国には十二館の北の端である花沢館はなざわだてがありました。1456年にコシャマインの戦いがおこると、道南十二館のうち十館は陥落してしまいましたが、花沢館に滞在していた蛎崎信広かきざき のぶひろの活躍によってコシャマイン親子が討ちとられたことで戦いは終結に向かい、花沢館は生き残ることが出来ました。蛎崎信広は若狭武田氏の出身で元は武田信広といいましたが、国を出奔して諸国を転々とした後に蝦夷地に移り、花沢館の館主で上之国守護の蛎崎季重かきざき すえしげに気に入られて婿養子となり、姓を蛎崎に改めていたのでした。

この戦勝により力を増した信広が、寬正3年(1462年)頃に勝山館の築城を開始したといわれています。信広は本拠地を花沢館から勝山館に移し、蝦夷地支配の拠点としました。

信広の子、光広みつひろの時代、永正10年(1513年)に再びアイヌ民族との間で紛争が発生し、松前半島の南端にある松前大館まつまえおおだてが陥落すると、光広は松前大館に本拠地を移してしまいます。このとき勝山城は光広の子である高広たかひろが城代となりました。

江戸時代になると、蛎崎氏は徳川家康からアイヌ交易独占を許されました。このときの当主は光広の曾孫にあたる蛎崎慶広よしひろでしたが、苗字を松前と改め初代松前藩主となりました。この頃に勝山城は廃城になったと考えられています。

松前氏はそのまま明治維新まで松前藩主として蝦夷地にありつづけました。

構造

勝山館は、標高159mの夷王山いおうざんの中腹、海に向かう斜面の上に築かれています。海側(北側)を大手、南側を搦め手とし、東西の沢を天然の堀とした南北に細長い領域を砦としています。

全体は大きく北曲輪と本曲輪にわけられ、本曲輪は全体を柵で囲って護りを固めていました。本曲輪は中央を南北に通路が貫き、その両側を階段状に整地して建物を建てていました。

本曲輪と北曲輪の間は二重の堀切で区切られ、北曲輪のさらに海側には複数の見張り櫓がたてられて侵入者に備えていました。

見学ガイド

現在、本曲輪の柵と橋が復元され、建物の柱跡が表示されて各所に案内板も設置され、非常に見学しやすくなっています。本曲輪のさらに上にはガイダンス施設があり、勝山館の復元ジオラマが見られる他、当時のアイヌの文化などについても展示されています。ガイダンス施設前までは車で行くことが出来ます(駐車場あり)。

ただ他地方から上ノ国まで行くのが大変です。公共交通機関で行くならば、函館からバスで江差ターミナルまで行き(乗車2時間半)、そこから上ノ国町バスに乗り換える必要があります。2022年9月時点でのダイヤではどうしても乗換に1時間の待ち時間が発生するため、合計で4時間ほどかかります。便数も少ないため時刻表をよく確認して計画を立てなければいけません。

また、勝山館のある夷王山は鳥獣保護地区にあたるため、熊がいる可能性があるとのことです(ガイダンス施設近くでもヒグマの目撃例があるそうです)。見学の際は熊鈴や携帯ラジオ(音を出し続けることが熊避けに有効)などの用意をお勧めします。ガイダンス施設や、ふもとの登城口ちかくにある旧笹浪家住宅で熊鈴を借りられるそうです。

いざ登城

今回、上ノ国勝山館へ公共交通機関で向かうルートは3種類を考えました。

1.函館駅前から函館バス610系で江差えさしターミナルに向かい、函館バス621系に乗り換えて上ノ国かみのくに
2.函館からJRで新函館北斗に向かい、そこから函館バス610系に乗車、あとは1と同じ
3.鉄道で木古内に移動して函館バス632系に乗車、大留おおどめで函館バス621系に乗り換えて上ノ国へ

このうち、乗車時間が最も長い反面、運賃合計が一番安い1のルートを選択しました。ちなみに始発での現着時刻はすべて同じです。というか最終的には3つの方法のいずれも621系の同じ便に乗ります。なにしろ本数が1日3往復しかないので…。

というわけで、朝6:50の函館駅前。ここから2時間半のバス移動です。普通の路線バスでトイレがないため、充分絞り出してから乗車します(笑)

バス乗車1時間で新函館北斗駅に到着。二時間半のバス乗車がきつければ、函館ライナーでここまで移動して乗り換えることもできます。また函館ライナーの方がここまでの所要時間が短いので、函館駅の出発時刻が25分ほど遅くできます。

今回は、交通費が若干高くなるのと、バスの混雑具合が判らずもしここから1時間半座れなかったら辛いな…と思ったので函館からずっとバスというルートにしました。

まぁ、混雑具合については心配する必要はまったくなかったんですが。5人くらいしか乗ってなかった…。

2時間半の乗車で江差ターミナルに到着。ここからさらに別のバスに乗るのですが、なんと1時間待ち…。タクシーを呼ぼうかと思ったのですが、地元のタクシー会社に電話しても『行くのに3時間半かかる(車が1台しかないらしい)』というので大人しくバスを待つことにしました。

このターミナルの敷地の外に出ても、周囲にはコンビニどころか建物すら見えません。が、写真右手の待合室に座る場所と飲料自販機とトイレがあるのが幸いでした…。

乗り継いだバスは20分ほどの乗車で、『上ノ国かみのくに』停留所で下車します。少し歩くと旧笹浪家の家屋・蔵など重要文化財の建築が並んでいるのですが、タクシーが呼べなかったことで見学する時間がなくなってしまいました。前を通り過ぎてもう少し先にある登城口へ。

前の写真の位置からさらに少し歩いて(バス停から2~3分です)、この細い脇道が勝山館の登城路入口です。幅1mしかないわ車道からは少し引っ込んでるわ、一応『←勝山館跡』という標識はでているのですが、ぼーっと歩いていると見逃しそうです。

北登城路

民家数軒の脇を通り過ぎると山登り開始。おっとその前に、忘れずに熊鈴装備(重要)。旧笹浪住宅やガイダンス施設でも借りられますが、返しに行く手間を考えると自分で用意した方が簡単。というわけで前回の北海道旅行の時に購入した熊鈴と、非常用の携帯ラジオを持参していました。

この北側から上っていくルートは、もとは大手道だったはずです。

登城開始3分、道の左手に平らな領域が現れました。これは物見櫓跡だそうです。

しばらくこのような坂が続きます。既に触れましたがこの林は熊の生息地です。下の方は住宅・車道が近いこともあってか目撃例は少ないようですが、一応熊鈴を鳴らしながら歩いてます。

物見櫓跡から5分程登ると、荒神堂跡があります。天文17年(1548年)に謀反を企てて討たれた上ノ国守護の蛎崎基広かきざき もとひろの亡霊を鎮めるために堂を建てたと伝えられているそうです。蛎崎基広は、蛎崎氏の本拠地が松前大館に移った時に勝山館の城代となった蛎崎高広の子で、謀反当時の当主である蛎崎季広かきざき すえひろの従兄弟にあたります。季広が家督を継いだことに対する不満が謀反の原因だともいわれています。

荒神堂あたりまでは堀の底のような道でしたが、ここからしばらくは土塁の上のような道です。

北曲輪

さらに道を進んでいくと、北曲輪に至ります。

案内などがないのですが、たぶんこのあたりが虎口(北曲輪の入口)です。

北曲輪より本曲輪大手を見ています。撮影のために立っているのが北曲輪の南端で、二重の堀を挟んだ初期方向正面が本曲輪です。

北曲輪は東西(VR写真初期方向の左右方向)に細長い曲輪です。復元模型によるとここにもいくつかの建物があったようですが、現地には特になんの表示もありません。というか中央の通路の部分の草が刈ってあるだけで、他は草ボウボウです。

二重の堀を渡る木橋が一直線になっていないのは、枡形と同じ効果を狙っているんでしょうか??というかもともとこういう配置なんでしょうか?

北曲輪より本曲輪の方が数m高いため、2つ目の木橋は大きく傾斜しています。さらに段差の上には柵が築かれ、本曲輪を守っていました。

では本曲輪へ突入。

本曲輪

本曲輪、大手口付近はこんな感じだったようです(現地案内板の復元図)。左手前が、いま上ってきたばかりの北曲輪から本曲輪に至る木橋です。

本曲輪全体をVRで。中央に幅3.6mの通路が通り、その両側は傾斜した土地を階段状に造成して多数の建物を配置しています。

大手門付近、客殿など

本曲輪の中でも、北西部最下段には重要な建物が集中しています。

中央通路のすぐ横には城代の屋敷がありました。城代の屋敷は勝山館の中では客殿に次いで大きな建物で、城代または重臣の住居と考えられています。

正面を通路側に向けた長方形の建物で、玄関・台所・居間・寝室・客間など細かく部屋が別れていたようです。

これも本曲輪で一番低い段、中央通路からは離れた位置にある客殿です。客殿は勝山館の中で最も大きな建物で、館の主が使っていたと考えられています。客殿には広さ20㎡ほどの正方形の部屋が2室つあり、そのうち玄関に近い方が客をもてなすための部屋(客殿)、奥が居間でした。さらに奥には寝室、書院などがあったと考えられています。

周辺の発掘調査では高級な茶道具や中国製の茶碗・皿などが発見されているそうです。

客殿の北西側には庭園がありました。直径5mmほどの小砂利が敷かれ、中央には直径12cm前後の平らな小石が並べてあったとのことです。館主は客殿の書院からこの庭園を眺めることが出来ました。

現状だと在りし日の姿を想像するのはなかなか難しいですが…。

復元想像図では見えませんが、客殿の裏あたりに井戸があります。これは客殿専用だったと考えられています。

これら、城代の屋敷や客殿がある本曲輪北西部が城内でも最も重要な場所だったでしょう。この一角は板塀によって他の領域からは独立していました。

馬屋など

こちらは城代の屋敷の一段上にある馬屋。城代の屋敷との間には段差があるほか、板塀で仕切られていました。馬屋の中は6つに区切られ、建物の隅では馬の歯が発掘されています。当時の馬は道産子など日本の古代馬の一種で、現在の馬に較べると小柄な種でした。

4×5mほどと非常に狭いのですが鍛冶作業場だそうです。小砂利が敷き詰められ、周囲は板塀で囲まれていました。中からは、金属を溶かす皿やふいごの羽口などの鍛冶道具、釘や鎧用の鉄の板などが多数発見されているそうです。

さらに上へ

中央の通路に戻ってさらに上に行こうとすると、4つの柱跡らしきものが地面に示されています。ここには櫓門があったと考えられています。

上の段も、それぞれ多数の建物が建てられています。これは三段目にある住居跡。

こちらはクラ跡。建物内に柱跡がありません。

さらに上っていくと、搦手口が見えてきました。

八幡宮

搦手口の手前には館神八幡宮がありました。これは文明5年(1473年)、蛎崎信広が八幡神を祀って創建したものです。この頃に勝山館も完成したと考えられています。写真の掘立柱建物は創建当時の社跡です。

ちなみに『文明5年』は応仁の乱の東西双方の総大将である細川勝元山名宗全が相次いで死去した年で、年末には室町幕府8代将軍足利義政が将軍職を子の義尚に譲っています。

そのすぐ隣にある礎石建物は明和7年(1770年)に修復された本殿覆屋跡と考えられています。明和7年は江戸時代、10代将軍徳川家治のころです。

ちなみに現在ふもと(上ノ国バス停・勝山館登城口近く)にある上ノ国八幡宮本殿は元禄12年(1699年)に建立され、明治9年(1875年)に現在の位置に移されました。北海道内では現存最古の神社建築です。

実は本記事の最初の方、登城口の1つ前の写真に大きく写っている鳥居が上ノ国八幡宮のものです。写真左手奥に建物が見えますが、これが本殿を保護する覆屋です。本殿はこの覆屋の中にあり、外からはその姿を見ることができません。

八幡宮と通路を挟んで向かいの位置には階段跡があります。

搦手口

本曲輪の最南端・最上端、搦手口にたどり着きました。

搦手口周辺をVRで。本曲輪の周囲には土塁が築かれ、さらに土塁の上には柵を築いて防衛していました。門前には大規模な空堀があり、本曲輪とそれより南の部分とを区切っていました。

搦手口を別角度から。空堀を別にしても本曲輪が手前の領域より数m高くなっており、防衛に有利な地形になっていることが判ります。

これで勝山館の端から端まで歩きました。

アイヌ墳墓群

搦手口を出てからさらに斜面を登っていきます。
写真は搦手口をでてまもなくの位置の通路西側で、画面奥にはアイヌの墳墓群が広がっています。

ガイダンス施設に向かうには、真っ直ぐ続く上っていく舗装された道ではなく右手にそれていく未知を使う方が近いです。

道沿いにはアイヌ墳墓群第1区が広がります。あちこちにある杭のようなものが1つ1つの墓をあらわしています。中がどうなっているかはガイダンス施設内で見られます。

ガイダンス施設

アイヌ墳墓群第1区の中をずっと上っていくと、勝山館ガイダンス施設にたどり着きます。手前に駐車場が見えていることから判るとおり、ガイダンス施設には車で行くことが出来ます。

外観は山小屋のようでしたが、中に入ってみると案外ひろびろとしてきれいな展示室です。僕がいったときは他に誰も見学者がいなかったため、のんびりゆっくり見学しました。

勝山館より、むしろ周辺にあるアイヌ墳墓に関する展示が充実しています。これは墳墓の上に被さった地層まで含めたモデル。

土葬墓のモデル。実際のものから型どりして復元したそうです。

副葬品のあった墓のモデル。

こちらは火葬施設(右奥の十字形)と火葬墓(左手前)のモデル。

もちろん勝山城のジオラマもありました。東西を天然の堀に囲まれた、地形を生かした構造であることがよく判ります。今日はこの模型の下端中央あたりからほぼまっすぐ上端まで登ってきたわけです。

ガイダンス施設の大きな窓から見える風景。目の前にはアイヌ墳墓群第2地区が広がり、その先(写真中央奥)には勝山館搦手門が見えます。

夷王山

勝山館ガイダンス施設のすぐ近くに、夷王山山頂があります。駐車場脇に上り口があります。

頂上には夷王山神社があります。山頂は標高159mですが、ガイダンス施設駐車場が既に標高130mくらいあるので差はそれほど大きくありません。道も歩きやすく整備されているので、そこそこ歩き慣れた人なら数分で上れると思います(ちなみにメタボ予備軍体型な僕でも3分で登れました)。

夷王山神社の鳥居前からは、ガイダンス施設・勝山館の搦手口や大手口が一望できます。海の方を観れば鴎島や開陽丸も見えます。上のVR写真の解像度では開陽丸を判別することはできませんが…。

スマホの広角モードでも撮ってみました。右端にガイダンス施設、中央左寄りに勝山城搦手門の木橋、左端に勝山城大手門から続く本曲輪北端の柵、客殿が見えます。

これで上ノ国勝山館関係の見学は終了。ひたすら斜面を登っていくので体力は使いましたが、なかなか充実した見学となりました。

…森の中で熊さんに出会わなくて良かった。

この後はガイダンス施設駐車場から舗装道路を下り、ふもとにある道の駅上ノ国文珠でランチです。

データ

Webサイト上ノ国町公式サイト内の紹介ページ
※散策マップPDFはぜひ見学前にダウンロードしましょう
地図GoogleMap
アクセス函館駅または新函館北斗駅より函館バス210系江差方面行きに乗車、『江差ターミナル』で函館バス610系に乗り換えて『上ノ国』下車徒歩3分
または
木古内駅より函館バス632系に乗車、『大留』で函館バス621系『原口漁港前行』に乗り換えて『上ノ国』下車徒歩3分

※いずれの経路にしても621系が1日3往復しかないので要時刻表確認です。往路復路いずれかはタクシーの利用を考えた方がいいかもしれません。

※経路検索だと勝山館最寄りバス停として『原歌』が表示されますが、こちらは車道の上り口の最寄りです。先にガイダンス施設に行く場合・林の中を通るのを避けたい場合はそちら。
今回の僕の経路のように大手道を下から上る場合は『上ノ国』が最寄りです。

※2022年9月時点では、函館~江差ターミナル間の往復の割引乗車券があります。通常片道1900円なのが往復で2660円と大幅に割引になります。販売が2022年12月末まで・使用が2023年1月末までの期間限定ですが、その後も同種の割引乗車券が企画される可能性はありますので、出発前に函館バスのサイトを調べてみると良いでしょう。
続100名城スタンプ勝山館ガイダンス施設
ガイダンス施設休館期間は上ノ国町総合福祉センター内上ノ国町教育委員会
開館時間城跡は見学自由、ただし照明設備は一切無いので夜間は危険
ガイダンス施設は10:00~16:00
休館日ガイダンス施設は月曜休館
また開館期間は4月第4土曜~11月第2日曜で、それ以外は休館
入場料ガイダンス施設は大人200円、小中高100円
見学所要時間1時間半~
備考駐車場はガイダンス施設前にあり
トイレはガイダンス施設駐車場にあり(城跡にはありません)
飲料自販機なし

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