知覧城 1

九州旅行4日目は、鹿児島県薩摩半島の南部・知覧に向かいます。知覧は五年前に一度訪れていますが、今回の旅行では前回行かなかった続100名城の知覧城が第一目的地です。続100名城登城18城目です。

知覧城平面図(駐車場案内板より)

知覧城について

歴史

鎌倉時代以来、島津氏初代の島津忠久しまづ ただひさが薩摩知覧院(当時の地名)の地頭となっていました。南北朝時代になると、当時の地頭・島津久直ひさなおは北朝方につき、南朝方についた郡司・平忠世たいらのただよと争いましたが、ともに没落してしまいました。その後、文和2年(1353年)に足利尊氏が島津氏5代当主・島津貞久さだひさの弟・佐多忠光さた ただみつに、忠世の旧領地を戦功による報償として与えたことで、知覧は佐多氏の領地となりました。知覧城の築城年代ははっきりしませんが、この頃には城の原形が出来ていたのでしょう。

室町時代初期、島津家重臣・伊集院頼久いじゅういん よりひさが島津宗家8代の島津久豊ひさとよと対立、頼久の伯父・今給黎久俊いまきいれ ひさとしが知覧城を奪取しました。が、伊集院氏は応永27年(1420年)に降伏。久豊は取り戻した知覧城をあらためて佐多氏4代の佐多親久ちかひさに与えました。知覧城の存在が文献に明記されたのはこの時が最初です。

その後、多少の移動はあったものの幕末まで知覧は佐多氏の領地でしたが、知覧城は11代佐多久慶ひさよしの時代、天正16年(1588年)頃に火災で焼失。12代佐多忠光ただみつは慶長15年(1610年)頃に知覧城の北方に知覧麗を築いて新たな根拠地とし、知覧城は慶長20年(1615年)の一国一城令を待たずに廃城になったと考えられています。

構造

知覧城はシラス台地の地形を利用した中世山城です。浸食谷を天然の空堀として利用し、平らな台地の上に曲輪を築いていました。中心部には本丸今城弓場城蔵之城と呼ばれる4つの曲輪が、ほぼ正方形を描くように並んでいますが、これらがそれぞれ空堀によって分かたれ独立しているのが大きな特徴です。

中心となる4つの曲輪を大空堀が囲み、さらにその周囲をとりまくように、東ノかこい西ノ栫南ノ栫蔵屋敷殿屋敷が配され、大規模な城郭を構成しています。

見学ガイド

知覧城は現在、本丸・蔵之城の北側に大規模な駐車場が作られ、駐車場から本丸東側より大空堀を通って本城・今城・弓場城・蔵之城を巡る見学コースが整備されています。公共交通機関で行く場合、知覧バス停や中郡バス停から知覧城駐車場まで徒歩15~20分ほどです。

見学コースが整備されているといっても、山城なので舗装道路ではなく土の地面を歩くことになります。傾斜の急な部分もありますので、それなりの準備をしてから出かけることをオススメします(山城としては比較的歩きやすい方だとは思いますが)。なお、知覧城内は、駐車場周辺も含めてトイレや飲料自販機などはありませんので、これについても事前に準備を。

続100名城スタンプは知覧ミュージアムにあります。知覧城からミュージアム知覧までの道程は2kmほどですが、最短コースだと途中高低差20mを一気に登る坂があるので徒歩だとけっこう大変でした。

知覧バス停から知覧城までの徒歩ルート例はこちら

いざ登城

今回も2017年の旅行と同様、知覧へのアクセスは鹿児島中央からバスを利用しました。鹿児島中央駅前バスターミナルから特攻観音行きのバスに乗車して70分、知覧バス停で下車。そこから20分弱歩いて知覧城へ。

この道も知覧城内の空堀と同様、シラス台地の浸食谷でしょう。この写真を撮影しているのは記事冒頭の写真の右下の谷のあたりで、写真奥のあたりが小谷大手口だと思います。

写真奥で道が左にカーブした少し先に知覧城の見学者駐車場があります。

知覧城の見学者駐車場はやたらと広く、乗用車数十台を停められると思います。が、僕が行ったときはまだ朝8:20頃と早い時間なこともあってかほぼ空。1台だけ駐車していましたが、城内では他の見学者を一人も見かけなかったな…。

駐車場の端に、案内板(本記事冒頭の地図など)があります。見学コース入口もここ。記事冒頭地図の『現在地』と書かれた位置から、時計回りに本丸の下を回って今城と本丸の間に入り、4つの曲輪を順番に見学していくようになっています。

駐車場の中にも入口のような構造があるのですが、どこへ続いているのかも整備状態も不明なので素直にガイド通りに進んでいきます。

すこし車道と平行に進みます。このあたりは桜が咲いていて眺めも良く、平坦で歩きやすい道です。

大空堀

道は右に大きく曲がり、このあたりから大空堀に入ります。左手が東ノ栫、右手が本丸です。

前の写真の左手の斜面には、第二次世界大戦中に作られた防空壕が残っています。

貸出用の登山杖がありました。『ここに返してください』とある通り、見学コースはまたここにもどってくるように設定されています。

大空堀に入って少し進んだ当たりに、もう1つの防空壕跡があります。

しばらくは本丸東側の大空堀を歩きます。右手の斜面の上が本丸、左手の斜面上は今城です。VR写真左手に続いているのが今城と東の栫の間の空堀です。空堀の底と曲輪とは高低差が20mもあります。かつてはこの堀がもっと深く、高低差は25m以上あったようです。

このあたりの地面は固まった砂のような感触で、山城としては道幅が広く、比較的歩きやすいです。

ここで分岐。左に折れると南東側の今城・弓場城方面、直進すると北西側の本丸・蔵之城方面です。まずは左に折れて今城・弓場城へ。ここからは上りです。

今城

少し登ったところで、さらに分岐。左が今城、右が弓場城です。左の今城へ進みます。

今城の虎口。小振りながら枡形になっているように見えます。

今城全景。現在はこのように多数の樹木が並んでいます。建物の復元も、案内板などもありません。

弓場城

先ほどの分岐まで戻って、次は弓場城へ。

弓場城に登る途中には、平らになった領域があります。武者溜まりのように使われていたのかもしれません。

弓場城虎口。構造は今城ほどはっきり残っていませんが、道がカーブしていてやはり枡形になっているように見えます。

虎口を上から。斜面を削って道を作っただけではなく、通路を挟み込むように土を盛って土塁を作っているようにも見えます。

弓場城は今城とは違い、樹木は周囲だけで広い平面になっています。
建物復元や案内板はありません。

曲輪の中が平坦なのに対し、縁にあたる部分がところどころこのように盛り上がっているのは土塁の跡でしょうか?

長くなってきたのでここで記事を分けます。

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