長篠城に続いて、日本100名城45番の岡崎城にむかいます。登城63城目です。
いざ登城
岡崎城の最寄り駅はJR岡崎駅ではなく、愛知環状鉄道の中岡崎駅または名鉄の岡崎公園駅です。
今回は、長篠城-(JR飯田線)-豊橋-(JR東海道本線)-岡崎-(愛知環状鉄道)-中岡崎という経路で移動しました。本数の少ない飯田線の待ち時間を入れずに100分かかりました。
中岡崎駅から真っ直ぐ東に進んでくると、岡崎城公園の西側を流れる伊賀川を渡ります。伊賀川沿いには桜が植えられ、桜堤とよばれています。ちなみにこの写真を撮影している橋は竹千代橋といいます。家康の幼名に因んでいるのでしょう。
実は伊賀川の、この竹千代橋から北に300mほどの部分は岡崎城の内堀の跡です。もともと伊賀川はもっと西、国道248号線のさらに西を流れていたのですが、河川改修工事によって岡崎城の堀跡を経由して乙川に接続するようになりました。
右岸に門のような石垣が見えますが、これは本丸西口の坂谷門跡でしょう。かつてはこの位置に橋が架かり、左岸には馬出がありました。
竹千代橋を渡ってさらに進むと、岡崎城公園の南端にある内堀に着きます。もとは内堀は現在の伊賀川まで続いていたのですから、当然この位置からは城内には入れなかったはずです。
本丸
天守(博物館)
堀を見たら北に折れてすすむと、本丸の中に入れそうな石垣の切れ目がありました。たぶんこれは本丸埋門の跡だと思います。ここを入ると…
いきなり天守の目の前です。
岡崎城天守には、元和3年(1617年)に建てられた複合望楼型三重三階の天守がありましたが、明治6年(1873年)に廃城になった後に払い下げられ、明治7年(1874年)に取り壊されてしまいました。現在あるものは昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートによって復元されたもので、外観は三重ですが内部は5階あり、お約束通りの歴史博物館になっています。
本丸の前には家康公遺訓碑があります。カメが背負う碑には、有名な『人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし』で始まる言葉が刻まれています。
さきほどのカメのすぐ裏には、天文11年(1542年)に家康が誕生したときに金の龍が昇天したという伝説のある井戸があります。
こちらは『わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し』ではじまる家康の遺言です。
天守1階に突入。チケット売り場があります。100名城スタンプもここ。
現在の岡崎城天守は鉄筋コンクリート造りの外観復元(または復興)天守ですが、1階中央には心柱の礎石があります。
左手には城門の扉、右手には石垣と用材、くぐり戸が展示されています。
石垣以外は『旧岡崎城の』としか表示がなく、どの門・どの建物のものかは判りません。
2階~4階の展示室は撮影禁止なので写真はありません。
展示内容は(定番の)城主・藩の歴史などについてです。展示点数はそれなりにあります。
5階は(これも定番ですが)展望室になっています。
眼下の建物は復元建築というわけではないのですが、まぁそれなりに本丸を見下ろしているような雰囲気はあります。
多色刷り版画の体験コーナーがありました。
僕が不器用なのか器具の不具合か、デキはイマイチ…。
『ビスタラインスコープ』という…窓際に固定されたただの筒なんですが、覗き込むと視野の中心にお寺の建物が見えます。そのお寺は大樹寺といい、桶狭間の戦いの後に今川軍から離れた松平元康が自害しようとし、住職に諭されて思いとどまったという場所だそうです。
龍城神社
天守のすぐ隣には龍城神社があります。徳川家康、本多忠勝、天神地祇(=天と地のすべての神)、護国英霊が祀られています。
岡崎城には、西郷稠頼が岡崎城を築城したときに龍神の化身である乙女が現れ『自分を鎮守の神としてあがめ祀ればこの城を守護し繁栄させよう』と語り城の井戸から水を噴出させた、という伝説があり、龍城という別名でも呼ばれています。神社の名前はそこからきているようです。
鳥居の横には神馬像があります。
持仏堂曲輪
青海堀
天守や龍城神社の裏手には、青海堀という大きな堀が残っています。本丸からこの堀を渡ると持仏堂曲輪です。
青海堀の続きです。奥の石橋は天守のすぐ裏手に接続しています。かつてはこのあたりに廊下橋があったようですが、現在の石橋が廊下橋の位置を正確に反映しているのかは判りません。
ベンチ
石橋の近くには竹千代(左)・家康(右)のベンチがありました。天下人となった家康にあやかり『出世ベンチ』という名前がついていました。石造りのベンチですが、材料は地元産の御影石、加工も地元の職人の手による物だそうです。
って座るスペースが狭くないかい…?ま、座ってみたんですけどね。
門跡と空堀
出世ベンチの近く、この石垣の切れ目が城時代からあるものだとすると、たぶん持仏堂曲輪の虎口である太鼓門の跡だと思うのですが…
そのまま石垣の間を通って先に進むと、青海堀とは別の空堀を渡ります。渡った先が二の丸、のはずです…。
二の丸
二の丸は近代的な公園になっています。昭和~平成にたびたび施設が更新されていて、かつては観覧車のある遊園地があったり、動物園があったりしたこともあるそうです。現在は遊具などはなく、噴水や花時計を中心とした落ち着いた公園になっています。
オブジェ・像など
小瀧喜七郎の像。昭和8年(1933年)~昭和10年(1935年)に岡崎市長を務め、岡崎公園の整備に力を尽くした人物です。
平成4年(1992年)に開催された家康公生誕450年祭の一環として建てられた松平元康騎馬像です。人馬の向く先は日光東照宮だそうです。
背景のピラミッドのような石垣は『元康が胸に秘めた国盗りの夢が、生誕の地、岡崎の土中から盛り上がる様』を表しているのだそうです。いまは水がありませんが本当は水が流れるようになっています。
昭和40年(1965年)の家康公350年祭に建てられた家康公像です。
昭和35年(1960年)に完成した花時計。花の植え替えを年4回しているそうです。
公衆電話ボックスがやたらとトップヘビーな感じです。
からくり時計のようですが動いているところは見られませんでした…。
本多平八郎忠勝像です。
三河武士のやかた 家康館
こちらは『三河武士のやかた 家康館』という博物館です。天守の展示が『岡崎城・藩』についての内容だったのに対して、家康館はその名の通り徳川家康個人に焦点を当てた展示です。
常設展示は撮影禁止だったので写真はありません。関ケ原のジオラマ(動く)がなかなか面白いのでオススメです。
展示室は撮影禁止ですが、こちらの体験コーナーでは兜を被ったり刀を構えたりして記念撮影が可能です。
井戸
家康館の近くにある土産物店の横手に、二の丸御殿の井戸跡があります。家康館からこの井戸あたりまでが二の丸御殿でした。
この井戸は平成19年(2007年)の発掘調査で発見されました。石組みがしっかり残っていますが、さすがに水はないようです。
大手門
岡崎城公園の北端、国道1号線に面した岡崎公園の表玄関として平成5年(1993年)に作られました。地元産御影石を積み上げた石垣の上に建てられた堂々とした城門です。ただし本来の大手門は現在の位置から北西約200m、浄瑠璃寺の南にありました。
現在の大手門の前には駐車場があります。この駐車場はかつて東曲輪だった場所です。
東曲輪
東櫓
駐車場(東曲輪)南東隅には、東櫓があります。望楼式二重櫓で、平成22年(2010年)に再建されました。東櫓の図面が現存していないため復元とはいえないかもしれませんが、同時代の櫓を参考に木造で建設され、石垣にも城内で発掘された石材が使用されています。
東櫓は内部見学も可能です。階段があるのですが1階天井がふさがれていて上がることはできませんでした。
坂谷曲輪
駅へ戻るのに、岡崎公園の西端の道を歩いてみます。二の丸・本丸より一段低く、空堀と伊賀川(堀跡)に挟まれた南北に細長い領域です。たぶん坂谷曲輪というのかな…。
産湯の井戸
公園西側入口付近に家康公産湯の井戸があります。その名の通り徳川家康が誕生したときこの井戸の水を産湯に使ったというものです。
いまでも水量は充分にあるようで、井戸の傍らには汲み上げた水が流され、水に触れることができるようになっています。一種のパワースポットとして一部で有名なようですが、美肌など何らかの具体的な効果があるというような話は聞きません(笑)。なお、浄水装置は通していますが飲用はNGとのこと。
城の西側の入口であった坂谷門は、現在の公園西口よりも70mほど南にありました。最初の写真でも見えたとおり門跡の石垣が残っているのですが、近くでの撮影を忘れました…。
えな塚
さらに南へ進んで、本丸埋門の近くには、えな塚があります。えな(胞衣)とはヘソの緒や胎盤のことで、古来日本ではえなを埋めることで子供の成長を祈願するという風習があったそうです。ここには徳川家康が生まれたときのえなが埋められていると伝えられています。
風呂谷曲輪
神橋
龍城神社の前、一段下から内堀に神橋がかかっています。たぶんこのあたりが風呂谷曲輪ではないかと思います。
これで岡崎城内を一周しました。
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