網走駅前より路線バスで【博物館・網走監獄】へ向かいます。
バスには何系統かあり、【施設巡り線】なら博物館の駐車場まで行くのですがもっとずっと遅い時間にならないと便がないので…本数の多い【美幌線】を利用して【天都山入口】バス停から歩くことにしました。
途中には【網走刑務所前】というバス停もあって紛らわしいのですが、
そちらは現在も使用されている刑務所。見学できる施設ではありません。
【博物館・網走監獄】は旧網走監獄の建物を移築/復元して作られた屋外型博物館。
現行の刑務所とはまったく無関係なものです。
8時少し前、天都山入口で下車。
そのまま坂道を登ること10分…
博物館・網走監獄のゲートに到着。
ここは入場ゲート前にある【鏡橋】。
本物の網走刑務所前にかかる橋の、かつての姿をイメージして再現した物です。
『川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢を拭い落とす目的で岸に渡るように』
ということで鏡橋と呼ばれるようになった…ということですが。
ここの再現橋の下は川ではなく池で、水面はびっしりと水草に覆われています。
だいぶ本物とは雰囲気が違うのではないかと…。
入場ゲートを通った正面、【煉瓦門】。
大正時代に作られ、いまも網走刑務所の象徴となっている正門の再現です。
煉瓦は用地内の粘土で作られているのだそうです。
煉瓦門前で掃除をしているこの男は実は囚人。
脱獄を繰り返した【五寸釘の寅吉】こと【西川寅吉】の人形です。
14歳の時に恩義のある叔父がトラブルで殺害され、その仇討ちをしようとして殺人未遂と放火の罪に問われ無期懲役。しかし仇討ちがまだ成し遂げられていないことから再三脱獄し、その度に捕らえられてあちこちの監獄に収監されたという人物。
あるとき五寸釘の刺さった板を踏み抜いてしまい、そのまま長距離を逃げたと言うことから【五寸釘】の異名をつけられたとか。
その罪が『仇討ち』ということから他の囚人たちには気に入られ、脱獄の手助けもされたようです。
まだ犯罪者の側にも義理人情が生きていた時代ということなんでしょうか…。
最終的に網走刑務所に移された後は模範囚となり、このように門の前(牢どころか建物の外!)の掃除を任されるまでになった…
という、波瀾万丈のエピソードの持ち主なんですね。
人形だけを見ると、ただの小柄な男なのですが。
煉瓦門の脇の小部屋を覗いてみると…
向かい合って座る、上品そうな身なりの二人の人物(の人形)。
ここは囚人との面会の待合室。
せっかくこんなに交通の便が悪いところまで来ても面会を許可されないこともあったとか。
煉瓦門を入ってすぐにある【旧庁舎】。
一見洋風に見えて、屋根は瓦葺きの木造和洋折衷建築。
網走刑務所の管理棟として使われていた建物です。
【面会室】
旧庁舎の中にさらに小屋が建ててあるような形式だったのですが…
これは本来外にあった建物なのかな??
今でも【網走刑務所】には凶悪犯を収容する極寒の流刑地のイメージがあると思いますが、
数十年前ならば『二度と生きては出られない』と思われていたのかもしれません。
※実際には網走刑務所は過去も現在も『凶悪犯専用』というわけではないそうです。
昭和初期の場合、東京から網走までは三泊四日。
多額の旅費を使ってこの地へたどり着いても、面会時間はわずか30分…。
面会に来る人々はどのような心情だったのでしょうか。
【典獄室】。
典獄とは今で言う刑務所長のこと。
机の上には出前の岡持ちのようなものがおかれていますが、
これは典獄の食事ではなく【検食】といって囚人用の食事をチェックしている場面。
手前の刑務官がサーベルを持っているのが時代を感じさせます。
【旧網走刑務所職員官舎】
明治時代に建てられた職員官舎の再現したもの。
職員官舎の中。
この部屋は拝命されたばかりのの新人看守のためのもっとも狭い物。
9坪・1LDKの室内に一家4人が生活している様子が描かれています。
この写真に写っているのはリビングに相当するスペースかな?
右手には蚊帳のつられた部屋、写真を撮っている場所は玄関、
写真にはまったく写っていないのですがこの右方にはちょっと狭めの台所があります。
この官舎は長屋風。3軒が繋がった形になっているのですが内装が再現されているのは1軒分。
他2軒分は休憩室になっています。