岩村城

旅行3日目はまず岩村城に向かいます。

岩村城について

岩村城古絵図
(現地案内板より)
岩村城総合案内図
(現地案内板より)

歴史

文治元年(1185年)、源頼朝の家臣・加藤景廉かげかどが遠山荘(現在の恵那市・中津川市)の地頭に任じられ、その子・景朝かげともが岩村にうつり城を築いたのが岩村城の始まりです。景朝は姓を加藤から遠山に改め、以後戦国時代まで遠山氏が代々この地を治めました。

元亀2年(1571年)、城主・遠山景任かげとうが子の無いまま病没すると、織田信長は5男・坊丸を遠山氏の養子にしました。坊丸は幼少であったので、景任の妻であり信長の叔母でもあるおつやの方(通称)が後見・女城主となりました。元亀3年(1572年)、武田信玄の家臣・秋山虎繁が岩村城を攻略。織田方の救援が望めない状態で、おつやの方は虎繁と婚姻するという条件で和睦、岩村城は武田方の城になりました。
しかし天正3年(1575年)、長篠の戦いの後に織田信長の子・信忠が岩村城を攻撃。開城ののち。秋山虎重のみならずおつやの方も処刑されました。
(このエピソードは地元では有名で、おつやの方にちなんで地元醸造会社が『女城主』という日本酒を作っています)

織田方の城となった岩村城は河尻秀隆が城主となり、この時代に城の改造が行われました。その後城主は団忠正・森長可・森忠正と次々に代わり、忠正の時代に岩村城は近代城郭へと作り替えられ、現在の姿となりました。

構造・現状

標高717mの山上に本丸を築き、その周囲に二の丸・出丸を配置した梯郭式の山城です。建築物はすべて解体されましたが、各曲輪・石垣は現在も良い状態で残っています。

いざ登城

公共交通機関で行く場合、明知鉄道の岩村駅が最寄り駅です。
恵那駅(JR中央本線と明知鉄道の乗換駅)近くに宿泊し、明知鉄道の始発に乗って移動。

『岩村駅』と書かれていなければ駅だとは判らない建物でした…。
こんな小さな駅ですが、 山城攻略にはありがたいコインロッカーが待合室にありました。

駅から旧城下町を思わせる建物が多く残る通りを1.5kmほど歩いて、登城口に到着。
このあたりは家臣の屋敷があった場所のようです。

屋敷跡の一つには地元出身の偉人・三好学氏の銅像が。

こちらは下田歌子氏が学んだ建物のあった場所です。

中に入ると下田歌子氏銅像がありました。

城内

藤坂

ここから先は本格的な登りです。林の中へ石畳の坂が続いています。
ここは加藤景廉の妻・重の井が輿入れの際、出身地から持ってきた種から生えた藤の木があったことから藤坂と呼ばれています。
道の傍らには『本丸まで600米』との立て札が。これ以降も100mごとに立て札があります。

初門

現地案内板より

ここまでほぼまっすぐだった藤阪ですが、少し先で急に右に曲がり、すぐ左に曲がっているのがわかるでしょうか?
ここが岩村城最初の防衛ポイントである初門はつもんです。もとは道の両側に柵が設けられ、有事にはここに門をつくって敵を防ぐ計画だったそうです。

上から見下ろした方が道の様子はわかりやすいですね。

大手一之門

常設の門としては最初にある大手一之門
門があったのは奥の石垣の位置で、絵図で判るとおり二層の櫓門だったそうです。門の左側には多門櫓が築かれ、右側も土塀で守られていました。手前の道左側の石塁は櫓跡ではなく、資格から敵が近づくのを防ぐための防護壁だそうです。

土岐門

大手一之門につづいて、岩村城の大手二之門です。土岐氏の城から城門を奪って移築したという伝承があることから、土岐門ときもんと呼ばれています。道の右手には小規模な石垣、左手にはかつて壁があったとされています。

土岐門を入ってすぐ、馬出状の曲輪があったということですが…このあたりなのでしょうか。

畳橋・追手門・三重櫓

追手門付近です。
左手の石垣から右奥の石垣にむかって畳橋が架けられ、右奥の石垣の上が櫓門と棟門を直角にあわせた枡形になっていました。畳橋は有事には畳んで敵の通行を阻止することができました。
また右手前の石垣の上には三重櫓が築かれて守りを固めていました。三重櫓は城内でもっとも大きな建築物で、天守の役割もはたしていました。

絵図と見比べても判りにくいので写真に書き込んでみました。これであってるかな…。
現在通路になっているのは、本来は道ではなく行き止まりの空堀だったのでしょう。

枡形を抜けたあたり(左後ろに門や三重櫓)だと思います。
ここから先はしばらく直線の 緩やかな上り坂です。両側は階段状に曲輪がならんでいます。

竜神の井

竜神の井は、岩村城の中で最大規模の井戸で、昭和60年(1985年)に創築800年を記念して復元されたのだそうです。

『岐阜県の名水五十選に認定』『味は天然のうまさがあります』と書かれているのですが、すぐ隣の立て札には『生水では飲用しないで下さ』とも…しかも最後の『い』が抜けてるよ…

大手通の途中、たぶん冒頭の古絵図の⑩のあたりです。
かつては家臣の屋敷がならんでいたのかもしれません。

霧ヶ井

城が攻撃を受けたとき、この井戸に城内秘蔵の蛇骨を投げ入れると霧が立ちこめて城を包み隠す、という伝承があるそうです。その伝承が霧ヶ井という名前のもととなっています。また実際このあたりにはよく霧がかかるため、岩村城は霧ヶ城という別名でも呼ばれています。

古絵図(拡大)の⑩の位置ではなく、その下の石垣の凹んだ部分です。井戸周囲の石垣は古絵図の通りに見えますが、戦国時代からの現存でしょうか。

中を覗くと、いまでも水を湛えています。

八幡曲輪

八幡曲輪には、鎌倉時代以来の城主である遠山氏の始祖・加藤景廉を氏神として祀る八幡神社があります。絵図によると奥には櫓があったようです。

江戸時代、毎年1月15日だけは、庶民も八幡神社参拝のため城内に入ることを許されていたそうです。

曲輪の奥には八幡神社があります。
(神社っぽくない建物ですが、奥に社があります)

二ノ丸菱櫓

霧ヶ井を通り過ぎると道はほぼ直角に右に曲がります。このあたりに俄坂門という門があったらしいのですが、絵図を見てもどうなっていたのかよく判らず。
右手前の石垣の上は二ノ丸で、菱櫓と呼ばれる櫓がありました。菱櫓といっても菱形ではなく、二の丸石垣の縁にそって折れ曲がった多門櫓です。
奥には岩村城を代表する構造である六段の石垣が見えています。

六段の石垣

有名な岩村城の六段の石垣、本丸北東面を護る高石垣です。もとは一番上の石垣だけだったのが、崩落防止のため前面に次々に段を足して補強していった結果このような形になったのだそうです。六段の石垣の階段を挟んで左奥に見える石垣の上は東曲輪で、城内最大の二重櫓である里櫓がありました。
階段の一番上には櫓門がありました。櫓門から東曲輪に入り、さらに右手にある長局埋門ながつぼねうずみもんを通って本丸に入るようになっていました。

写真右手前の段差の上には、六段の石垣の手前を右奥に入っていく細い道があります。もとはそこに二の丸があったのですが、現在は本丸石垣沿いの細い通路状の部分以外は完全に林になっています。通路は二の丸から本丸に入る本丸埋門ほんまるうずみもんの前を経由して、本丸西面の高石垣脇の不明門あかずもんに続いています。

この写真を撮ったあたりには橋櫓というちょっと変わった建物があったそうです(古絵図の右下に横倒しで描かれている建物)。二重櫓の2階部分から二の丸へ向かう通路へ廊下橋が架けられているという独特な形状です。

またヘタクソな絵ですみませんが(ペンタブ欲しい)、こんな感じでしょうか…。

六段の石垣を反対側から。最下段には大岩がみえます。自然のものでしょうか?
この写真を撮った位置から背後方向に進むと帯曲輪に入れます。帯曲輪は東曲輪の東側~本丸南側を通り、出丸に接続します。

東曲輪

東曲輪はその名の通り本丸の東側にあった曲輪で、本丸の外枡形や馬出のような性格を持っていたといわれています。
奥に見える立て札のあたりに二重櫓がありました。

東曲輪より長局埋門を見ています。六段の石垣はこの写真の右フレーム外で、下から階段を上って右折してすぐ長局埋門に入れるわけではなく、この写真左端で折り返して坂を登ってから長局埋門に入るようになっていることが判ります。古絵図をよく見るとこの坂もちゃんと描かれています(⑬という番号が邪魔ですが…)

長局埋門と本丸下段

長局埋門の前です。石垣の上には多門櫓があり、石垣の間の開口部に門櫓がありました。
ここを入ると本丸下段です。本丸下段は本丸上段の東側と北側に接する細長い通路状になっており、長局とも呼ばれています。長局を進み、次の本丸東口門を通ると本丸上段です。

本丸上段から長局埋門を見下ろしています。東曲輪から長局埋門を入るとすぐ左折(写真の手前側)し、長局を進んで東口門(写真右下フレーム外)へ進みます。

本丸東口門

本丸東口門、本丸の正門です。次の本丸上段の古絵図、上の方にある凹の部分です。
写真奥に階段が見えるように、正面から直進で本丸上段に入るのではなく石垣に囲まれた中で左折します。

本丸上段に入る門は、この本丸東口門の他に、本丸棚門と本丸埋門があります。

本丸上段

東口門から本丸上段に入りました。
岩村城の本丸は標高717m、日本の山城の中でもっとも高い位置にあります。
本丸上段は石垣の縁に沿って二重櫓が2つ、多門櫓が2つありました。
内部は建物がなく広場になっていたそうです。

本丸には昇龍の井戸がありました。山城なのに多数の井戸があります。

霧の井と違い周囲に柵があるので水があるかどうか判るほど覗き込むことはできませんでした…。

本丸の中央にはひときわ高い…杉かな?

岩村城歴代将士慰霊碑と岩村城の歴史の説明板もありました。

織田信長は本能寺の変の80日前に岩村城に宿泊したのだそうです。

本丸棚門

本丸北東部、急な階段で本丸上段と下段をつないでいるのが棚門です。
ここには他の2つの本丸の門よりも簡素な冠木門があったようです。

本丸埋門

本丸下段北西隅には埋門うずみもんがあります。二の丸から本丸に入る門です。
右手の石垣の上には納戸櫓とよばれる二重櫓、正面には櫓門がありました。
ここを入るとすぐ石垣(本丸上段)に突き当たり左に折れ、本丸上段に入るにはもう1度門をくぐるようになっていました。

この位置から正面の階段を上らずに右手に進むと不明門あかずもんを経由して出丸へ、左手に進むと六段の石垣俄坂門付近に至ります。
撮影位置である埋門外は二の丸ですが、いまは密に木が生えた林で、本丸石垣に沿った細い通路状の部分以外は歩き回れる状態ではありません。

写真の奥、突き当たって右に折れている部分に埋門の櫓がありました。手前左には本丸上段に続く門がちょっと見えています。写真を撮っている背後はそのまま本丸下段に接続していますが、かつて壁でふさがれていたのでしょうか?すぐ先に簡素な棚門があるので、ここだけ防備が厳重でもあまり意味が無いような…。
公式サイトの開設によると、この部分は『地下通路のよう』になっていたということなので、全体が櫓になっていたのかもしれません。

1つ前の写真の手前左にあった、埋門から本丸上段に至る門です。
狭いです。さらに入ってすぐまた右折しなければならないようになっていて、攻め込むのが難しい構造です。

二の丸

二の丸は本丸の北に位置する曲輪です。かつては重要書類を保管する朱印蔵、御城米蔵、武器蔵、宝物蔵、厩などがあったとされていますが、今はご覧の通り、建物跡を見分けるどころか足を踏み入れるのさえ躊躇してしまうような状態です。

ちなみに、霧ヶ井の伝説にあった蛇骨も、二の丸の宝物蔵に収蔵されていたといわれています。

本丸西面高石垣

本丸埋門から本丸石垣に沿って細い道を降りていくと、本丸西面の高石垣前に出ます。
この写真を撮っているあたりには不明門あかずもんがありました。
高石垣に沿って写真奥へ進むと出丸、左に進むと二の丸を通って本丸埋門へ至ります。

本丸西面高石垣を出丸に近い側から。石垣が上下二段になっていて、上段はもちろん下段にも土塀が巡らされて守りを固めていました。

出丸

出丸は本丸南西に位置する曲輪です。絵図には2つの二重櫓と2つの多門櫓が描かれています。多門櫓の1つは大工小屋と呼ばれていたようです。
写真は本丸から出丸を見下ろしています。左手前の木のあたりに出丸の唯一の出入り口である出丸口門がありました。奥の建物は休憩所・トイレです。その位置には氷餅蔵という、籠城に備えて氷餅(餅を水に浸して凍らせた後に乾燥させた保存食。東北地方や信越地方で作られている)を貯蔵する蔵があったとのことなのですが、外観をどの程度再現しているのかはよく判りません。

現在、出丸は駐車場として使われています。
つまり、実はここまで車で上ってくることができるのです。

南曲輪

本丸南側にある曲輪で、戦国時代のものです。江戸時代にはほぼ使われず、戦国時代の状態がほぼそのまま保存されているそうです。足場が悪いのであまり奥には行かなかったのですが、写真中ほどにあるように堀切・土橋の跡を見られた、と思います。

帯曲輪

出丸から、本丸南側と東側(東曲輪のさらに東)を通って六段の石垣付近まで帯曲輪が続いています。絵図によると外側には土塀が巡らされていたようです。写真は南曲輪近く、出丸へ向かう方向で撮影しています。
帯曲輪のうち、南側の部分は出丸駐車場へ接続する車道としても使われています。
って、狭い!対向車が来たらすれ違えるのでしょうか??

これにて城内はほぼすべて回ったと思います。
登城時はまだ開館時間前だった資料館がそろそろ開くころなので、下山して見学します。

データ

Webサイト岩村城復元CG(現地案内板のQRコードのリンク先)
アクセス明知鉄道 岩村駅より資料館まで徒歩25分
見学所要時間資料館前から城内を一周して資料館前に戻るまで90分程度
開館時間・定休日城址は見学随時
入場料なし
備考トイレは出丸駐車場にあり
城内には飲料自販機はない

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