福岡城の次は太宰府へ移動して、大野城の遺構を見学します。
大野城について
概要
天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍にに敗れた後、大和朝廷が防衛のために築いた城です。日本書紀によると、天智天皇4年(665年)に大野城と基肄城が築かれました。築城に当たって百済からの亡命高官から技術的指導をうけた、朝鮮式の山城です。
見学ガイド
最寄り駅は西鉄太宰府線の太宰府駅です。大野城は太宰府駅の約3km北にある標高400mほどの四王寺山(大城山)山中にあります。距離や高さはともかく、自転車や徒歩で安全に登れそうな道がみあたらず、前回太宰府を訪れた際は100名城スタンプのみで遺構の見学は断念しました。
今回は前回より予算に余裕があったので、太宰府駅前からタクシーを利用しました(百間石垣のすぐ近くを経由する車道があります)。料金はこの記事の経路で、最後に九州国立博物館まで移動して4300円ほどでした。
百間石垣

まず、大野城遺構の中でも最大規模の百間石垣へ。大野城の北部の宇美口を護る石垣で、太宰府駅から直線距離で3km、道程では6.5kmほどの位置にあります。写真左手前から右奥に向かって、長さ150m以上の石垣が続いています(1間は約1.8mを表します)。高さは最大8m、基底部は幅9mもある大がかりなものです。
調査の結果、排水を考慮した構造になっているなど高い技術(百済由来?)で築かれているそうです。
前の写真より端部に寄ってみました。石の積み方が観察できます。
1300年以上も前に造られたものがちゃんと形を残しているというのは(土砂災害などによって何度か修復作業はされていますが)素晴らしいことだと思います。
百間石垣1枚目の写真の右側なのですが、こちらは土塁でしょうか。
焼米ヶ原・尾花地区
駅の方の1.5kmほど戻ったところにある焼米ヶ原へ移動しました。焼けて炭化した米が見つかったことからこの名がついたのだそうです(古代に住居があったのでしょうか)。地元の小中学校の遠足やハイキングにも使われているそうです。
焼米ヶ原では、大野城の土塁跡が見られます。土塁は大野城を一周するように築かれていて、その全長は8kmもあります。その中で焼米ヶ原は駐車スペースもあるので見学に行きやすいでしょう。
この写真では右手前から奥に向かって土塁が続いています。こちら側からだと傾斜がなだらかで高さも大したことがないように見えますが、反対側は木の高さからも判るようにかなりの急傾斜です。
土塁の上からは太宰府の市街地を見下ろすことができます。写真中央にある大きな屋根は九州国立博物館です。
そのまま徒歩で奥へ進むと、尾花地区へ入ります。ここでは10棟の建物跡が見られます。建物の大きさはどれも6.3m×10.5mに統一されており、折れ曲がりながら一列に並んでいます。
写真では碁盤の目のように3列に並んだ礎石が見えます。ここにあったのは高床式の建物で、武具や食糧の倉庫だったと考えられているそうです。
大野城とは直接の関係はありませんが、焼米ヶ原に玄清法印の墓があります。玄清法印は大野城が造られた時代から100年ほど後に太宰府に生まれ、7歳で僧侶になりました。17歳の時に失明しましたが、比叡山の最澄(天台宗の開祖として有名)より依頼されて毒蛇退治をしたり、太宰府で天然痘が大流行したときには悪病消滅の祈祷を行って流行を治めたり、といった伝説のある人物です。
岩屋城
焼米ヶ原の駐車場からさらに500mほど太宰府駅の方へ下ったところには岩屋城があります。岩屋城は大野城と同じ四王寺山の中腹にありますが、時代はずっと新しく、天文年間(1532~1554年)に戦国大名・大友宗麟の家臣・高橋鑑種によって築城されたと言われています。

現在は、写真のとおり本丸が公園のようになっています。
『嗚呼壮烈岩屋城址』と、なかなか味のある書体で描かれた碑がありました。
岩屋城からは、太宰府市街地が広く見渡せます。
データ
Webサイト | 大野城市による大野城の紹介 |
Google Map | 大野城跡 |
アクセス | 西鉄太宰府線 太宰府駅より徒歩50分 ※上りはタクシー等を利用すると楽&安全です。 |
100名城スタンプ | 大野城心のふるさと館 福岡県立四王寺県民の森管理事務所 太宰府市文化ふれあい館・太宰府展示館 |
開館時間 | 見学自由、ただし照明設備はないので夜間は不可 |
休業日 | 見学自由 |
入場料 | 見学自由 |
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