岸和田城

九州旅行からの帰り道ですが、今日の夜までに家に帰り着けば良いので、大阪港から比較的近い岸和田城を観に行くことにしました。続100名城登城20城目です。

歴史

岸和田に初めて城が築かれたのは建武年間(1334~1336年)頃という説もありますが、それを裏付ける確かな証拠はないようです。発掘調査によりその100年以上後の15世紀後半頃と思われる古い山城跡が現在の岸和田城とは別の場所に発見されていますが、それが確かな証拠のある最古の岸和田の城のようです。

16世紀前半、和泉国の守護細川氏の家臣・岸和田氏の居館が現在の岸和田城の位置に築かれたともいわれていますが、『岸和田城』が存在したという最初の記録は、幕府の実権を握った三好長慶の弟・三好実休が永禄元年(1558年)に岸和田城に入城したというものです。三好実休は岸和田城の大改修を行いましたが、永禄5年(1562年)に戦死。その後戦況が変わる毎に城主は細川氏・松浦氏と変わります。

織田信長の紀州征伐の後は50年に満たない短い期間に城主は織田信張・蜂屋頼隆・中村一氏・小出秀正・松平信喜・北条氏重・小出吉英・松平康重と次々に変わります。江戸時代に入った寛永17年(1631年)に岡部宣勝が城主となった後は明治維新まで岡部氏の居城でした。

天守は文政10年(1827年)に落雷で焼失、他の櫓や門などの建築物も明治維新の頃にすべて破壊され、現在は残っていません。

構造

大阪湾に近い紀州街道沿いの平野に築かれた平城です。本丸を二の曲輪三の曲輪の二重の曲輪と、各曲輪の間を区切る三重の水堀で囲んだ輪郭式の縄張りです。本丸への唯一の出入り口は本丸北西に位置する二の丸(『二の曲輪』とは別)で、本丸北東・南西の二の曲輪へそれぞれ接続していました。二の丸は構造的には馬出のような存在ですが、本丸に匹敵する広さを持つ巨大なものです。

見学ガイド

現在は本丸と二の丸が城址として整備され、本丸・二の丸周囲の水堀が残っています。城内の建築物では天守・隅櫓・櫓門・多門櫓・土塀が復興されていますが、史実に忠実な復元ではないようです。

昭和29年(1954年)に復興された天守は、本来五重だったものが三重三階の鉄筋コンクリート造となっています。復興当初は市立図書館として利用されていたそうですが、現在は多くの城址公園と同様、歴史博物館になっています。

昭和44年(1969年)に復興された隅櫓・多門櫓も近代建築であり、内部は郷土資料館…ということになっていますが、どうも企画展示スペースという扱いのようで、僕が行ったときにはポスターなどが掲示されているだけでした。

本丸天守前は八陣の庭という曰くありげな名前の庭園になっていますが、これは江戸時代以前のものではなく、昭和28年(1953年)に作庭家の重森三玲氏によって作られたものです。なお、この庭の見学をより楽しくするARアプリがあるので、事前にインストールしていくと良いかもしれません。

いざ登城

今回は南海本線岸和田駅まで行き、そこから歩きました。駅からの道程は隣の蛸地蔵駅からの方が近いですが、岸和田駅は特急が停車するのに対して蛸地蔵駅は各駅停車と準急しか停車しないので、乗換を考えると難波からの所要時間はほとんど変わらないと思います。岸和田駅から二の丸公園までは1km弱、徒歩10~15分くらいです。

水堀

本丸周囲の水堀に沿って桜が植えられていています。当日は桜がほぼ満開で天気も良く、城見学だけでなく花見気分も味わえました。入口は駅から遠い側にあるので水堀に沿って半周します。

本丸南東側の石垣下には犬走いぬばしりと呼ばれる構造が見られます。防衛上は不利な構造ですが石垣の崩落を防ぐために作られたといわれています。

別方向から。石垣の上に本丸の隅櫓と多門櫓、奥には天守の3階部分が見えます。

二の丸

二の丸は自由に出入りできる公園になっています。

二の丸多聞櫓、と案内図には書かれていますが…多聞櫓って曲輪の端にある細長い建物かと思っていました…。そして実はこの建物、トイレです。建物の形状がどの程度かつての建築に似せているのかは判りません。

市民道場心技館だそうです。これも二の丸の櫓のような外見ですが復元というわけではないようです。

本丸

櫓門付近

本丸は二の丸と橋で結ばれています。これ以外に本丸に入る方法はありません。橋の正面には大きな櫓門がどっしりと構えています。昭和44年(1969年)に復興されました。

門を入ると正面に『岸和田城址碑』と描かれた碑があります。その背後は壁です。

枡形というには二の門がないのですが、外から門を入るとすぐ左右いずれかに直角に曲がらなければいけない形状です。

櫓門を入ってすぐ内側から。

櫓門の近くには、なぜか人が入れそうなほどの巨大な鎌が置かれています。しかも横倒しの状態です。『こしき用大釜・酒造用に使われていた』と掲示されていましたが、なぜここにあるんでしょう??

石垣に昇る階段は…復元でしょうか?

八陣の庭

天守の前がこんな風になっている城は珍しいですね。

これは『八陣の庭』という庭園です。実は昔からこうだったわけではなく、昭和28年(1953年)に作られたものだそうです。設計は光明院庭園などで有名な作庭家の重森三玲氏で、この八陣の庭は諸葛孔明の八陣法をテーマにしたのだそうです。

八陣の庭についての説明がありました。周囲のどの方向から観ても、また天守から見下ろしても楽しめるように設計されています。

小天守の入口に近い方から時計回りに進んでいきます。まずは『天陣』。『陣勢が上天にのぼる勢い』が立てられた長石によって表現されています。

蛇陣』。大蛇が獲物に飛びかかる様子が横向きにおかれた3つの長石によって表されています。

雲陣』。雲が去来飛散して常に変化する姿が表されています。

竜神』。象徴的に竜が表されています。

竜神』。象徴的に竜が表されています。

鳥陣』。鳳凰が天空にはばたく姿が表されています。

地陣』。埋められた3つの石が動かぬ様子を表しています。

虎陣』。猛虎が吠える姿を表しています。

そしてこれら8陣に護られて中央に配置されている『大将』。四方すべてが正面と出来るように石が配置されています。

岸和田城AR』なるスマホアプリがあります。アプリ画面上に表示されるガイド線と、カメラを通して映っている風景が合うように場所を移動して『召喚』すると…

それぞれの陣を表すキャラが表示されます。配置された石が直接雲などのキャラクターを表していることもあれば、動きを表している(現在のマンガの効果線や「オバケ」のような感じでしょうか)ものもあります。

遊んでみたい人は、あらかじめ電波の強い場所でダウンロードしていくことをオススメします。現地は電波が弱いのかダウンロードに時間がかかるので…。

天守

本丸の奥には天守がそびえています。3重の大天守と2重の小天守が並ぶ転結式望楼型天守です。昭和29年(1954年)に復興されました。江戸時代には5重5階だったということなので、それにくらべるとかなり小型になっています。

入口は小天守で、大天守内が博物館&展望台になっています。

1、2階の展示室には藩主家の資料等が多数展示されています。残念ながら撮影禁止なので写真はありません。

3階は展望台になっています。

大天守はおおまかに4頂点が東西南北方向になっており、各面が北西・北東・南西・南東に向いています。北西方向は本丸・八陣の庭を見下ろすことが出来ます。なんとも奇妙な図形ですが、城の縄張りをイメージしたものだそうです。

北東側には岸和田高校の校庭が見えます。

南東側には岸和田高校の校舎がみえます。古絵図によるとこの写真左端あたりに東中門があったようなのですが、ここから眺めてもどこだか判りませんね…。

南海線の高架が意外に近くみえます。

南西側、左寄りに歴史のありそうな建物がみえますが、これは昭和初期に旧寺田財閥当主の別邸として建てられた建物で、回遊式庭園を有する近代和風建築です。市指定有形文化財で、現在は五風荘という料亭になっています。

3階には江戸時代の岸和田城のジオラマもあります。写真は現在城址公園になっている本丸・二の丸周辺のアップです。

天守の裏側は狭い通路上になっていて、狭間のある土塀が復元されています。武者走りに降りると思われる門がありますが閉鎖されていて見学者は降りられません。

隅櫓と多聞櫓

本丸北西には隅櫓と多門櫓があります。櫓門と同じく昭和44年(1969年)に復興されました。

隅櫓・多聞櫓は中に入れます。一応展示室のようですが、僕が行ったときは年表など簡単なものしかありませんでした。

櫓内の記念撮影コーナー。背景のパネルには、フラッシュをつかう・つかわないで絵柄が変わるしかけがあります。

フラッシュを使うとこうなります。

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